『駈込み訴え』は、新約聖書に登場する裏切り者の代名詞・ユダの話を題材にした作品です。
今回は、太宰治『駈込み訴え』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『駈込み訴え』の作品概要
著者 | 太宰治(だざい おさむ) |
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発表年 | 1940年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 裏切りの内実 |
『駈込み訴え』は、1940年に文芸雑誌『中央公論』(2月号)で発表された太宰治の短編小説です。「駈込み訴え」という言葉は江戸時代の法にかかわる用語で、「正規の手続きを経ずに行われる緊急の訴えのこと(※参考)」です。
Kindle版は無料¥0で読むことができます。
三谷憲正「太宰治「駈込み訴へ」再論―「私」と「あの人」の造型をめぐって―」
文庫の場合、文藝春秋の文春文庫に収録されています。『斜陽』『人間失格』『走れメロス』などの代表作から、『満願』『葉桜と魔笛』などのマイナーな作品まで11作品が掲載されています。
鬱々とした作品も明るい作品も入っており、太宰のふり幅の大きさが分かる短編集なので、1冊持っておいて損はないと思います。
著者:太宰治について
- 無頼(ぶらい)派の作家
- 青森の大地主の家に生まれた
- マルキシズムの運動に参加するも挫折
- 自殺を3度失敗
太宰治は、坂口安吾(さかぐち あんご)、伊藤整(いとう せい)と同じ「無頼派」に属する作家です。前期・中期・後期で作風が異なり、特に中期の自由で明るい雰囲気は、前期・後期とは一線を画しています。
青森の地主の家に生まれましたが、農民から搾取した金で生活をすることに罪悪感を覚えます。そして、大学生の時にマルキシズムの運動に参加するも挫折し、最初の自殺を図りました。この自殺を入れて、太宰は人生で3回自殺を失敗しています。
そして、『グッド・バイ』を書きかけたまま、1948年に愛人と入水自殺をして亡くなりました。
『駈込み訴え』のあらすじ
「私」は、「自分の師である『あの人』を殺してほしい」と旦那に訴えています。あの人は傲慢(ごうまん)で意地悪で、うぬぼれ屋なのです。しかし、私はそんなあの人を深く愛しています。私の訴えは、あの人の愛ゆえの行動なのです。
そして、私は自分が訴えをするに至った経緯を旦那に話し始めました。
登場人物紹介
私
「あの人」に付き従っている男。
あの人
イエスのこと。「私」の師。
マリヤ
貧しい百姓女。イエスが恋をする相手。
旦那(だんな)
「私」が「あの人」のことを訴えている相手。
『駈込み訴え』の内容
この先、太宰治『駈込み訴え』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
偏愛の果て
矛盾した思い
「私」は、「自分の師である『あの人』を殺してほしい」と旦那に訴えています。あの人は意地悪で、私の裏の苦労を知らずに私をこき使うのです。
にもかかわらず、私は美しいあの人を愛しています。そして、あの人が死んだら自分も一緒に死ぬつもりなのです。
ところが、あの人は私のこうした純粋な愛を受け取ってくれません。あの人は私のことを嫌っているのです。
自らの手で葬りたい
6日前、マリヤという女性が高価な油をあの人の頭にかけてしまいました。私はマリヤを叱りましたが、あの人は私をにらみつけてマリヤをかばうのです。私は、あの人マリアに恋をしているのだと思い、嫉妬の念に駆られます。
そして、「あの人はいつか殺されるから、それなら自分の手で殺したい」と思うようになりました。
処刑、決まる
翌日、私たちは祭りのためにエルサレムに向かいました。そこで、あの人は商人たちを追い払って傍若無人に振る舞います。そんなあの人の姿を見た私は、自分があの人を一途に愛し続けた愚かさを感じました。
それから祭司長や長老は、乱暴なあの人を殺すことに決めました。あの人と弟子だけがいるところを役所に知らせたものには、銀三十(約6万円)が与えられます。そして、私は自分があの人の居場所を役所に知らせようと思いました。
屈辱
祭りの当日、私を含む師弟13人は宴会を開きました。全員が食卓に着いたとき、あの人は唐突に弟子たちの足を洗い始めます。その行為の意味を悟った私は、あの人を売ろうとしていたことを後悔しました。
しかし、あの人はふと「おまえたちのうちの、1人が、私を売る」と言い、「私がいま、その人に1つまみのパンを与えます」と続けます。そして、あの人は私の口にパンを押し当てました。
あの人は、弟子全員の前で私をおとしめたのです。私は、あの人の意地の悪さを憎みました。あの人は、「おまえの為すことを速やかに為せ」と言いました。こうして、私は旦那のところにやって来たのでした。
あの人の居場所を役所に教えた私は、銀三十を差し出されます。私はお金が欲しかったわけではないので、それを断りました。しかし、「金銭で売ってやった」とあの人を辱(はずかし)めるために、私は銀を受け取ります。
そして、私は「私の名は、商人のユダ。イスカリオテのユダ」と言いました。
『駈込み訴え』の解説
『駈込み訴え』の背景
『駈込み訴え』は、新約聖書をもとにした翻案(ほんあん)小説です。翻案小説とは、すでにある物語の大筋を真似て、細かい部分変えて書き直された小説のことです。
『駈込み訴え』では、新約聖書の中で最も有名な話である「ユダの裏切り」の部分が取りあげられています。
イエスの弟子の中でも、特に優れた12人のことを十二使徒と呼び、ユダはその一員でした。
しかし、銀三十を得るためや、悪魔が体の中に入ったせいで、イエスを裏切って敵に売ったのです。しかし、ユダはそのあと良心に目覚め、自ら首をくくって死ぬでした。『駈込み訴え』は、この新約聖書の物語を題材にして執筆されました。
なぜ新約聖書なのか
「なぜ、太宰はユダの裏切りに新しい解釈を与えようとしたのか」という問いに関して、渡部氏(※参考)は「太宰がなした数々の裏切りが関係している」としています。
1930年~1936年の太宰の生活は、裏切りの連続と言えます。
- バーで働く女性と心中。相手を死なせて自分は生き残る
- 左翼運動を辞める
- 親に「大学へ行っている」とウソをつく
このような数々の裏切りを通して、太宰は人を裏切るときの悩み・苦しみ・葛藤をユダの裏切りに投影させたのではないかと渡部氏は主張しています。
渡部芳紀「駈込み訴へ」論(東郷克美・渡部芳紀編『作品論 太宰治』1974年6月 双文社出版刊)
なぜユダはイエスを裏切ったのか
新約聖書では、ユダの裏切りの理由は「銀三十を得るため」「悪魔に憑りつかれたため」とされています。
しかし『駈込み訴え』では、ユダがイエスを裏切るに至った理由は別のところにあります。太宰が新約聖書を再解釈した作品が、『駈込み訴え』なのです。
イエスへのゆがんだ愛
作中では、ユダは「イエスを愛している」ということを強調しています。
私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。
あの人ひとりに心を捧げ、これ迄どんな女にも心を動かしたことは無いのだ。
あの人を、一ばん愛しているのは私だ。
こうした語りからも、ユダがいかにイエスに固執しているかが分かります。
しかし、一方でユダはイエスをひどく憎んでいます。
あの人は、私の此の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。ああ、あの人を殺して下さい。
私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。
ユダの独占欲の強さがかいま見える語りです。ユダは、自身がささげる愛にイエスが応えてくれないことに激怒しています。
さらに、ユダは「他の弟子よりもあの人を愛している」という発言をするなど、ユダを除く11人の弟子と自身を比較しています。ここから、「イエスをきちんと愛しているのは自分だけ」「イエスは自分のもの」というユダの心情が読み取れます。
純粋な愛は独占欲に変わり、他の弟子への嫉妬心からユダはイエスに憎悪の感情を抱くようになりました。そして、これが太宰によって解釈された「ユダの裏切りの理由」なのです。
『駈込み訴え』の感想
ものすごいスピード感
『駈込み訴え』は改行も段落分けもされておらず、ユダが怒涛の勢いで語り、「駆け込んできた人が堰(せき)を切ったように話している」というシチュエーションにぴったりの書き方です。
実際に、『駈込み訴え』は口述筆記で書かれた作品で、太宰が語ったことを妻の美知子夫人が書き留めて成立しました。ユダが言葉を次々に吐き出し、たたみかけるように語る様子にただただ圧倒されました。
可愛さ余って憎さ100倍
ユダはイエスを愛し、身の回りの世話をしたりイエスの願いを聞き入れたりと、イエスに身を捧げます。ところが、イエスがマリヤに恋をしているのではないかと思ったユダは、嫉妬心からイエスを殺すことを決めました。
そして、自身も一緒に死ぬことを決意します。さらに、「金で命を売られた」という屈辱をイエスに与えるため、ユダはあえて報酬を受け取るという選択をしました。
このように、作中でのユダのイエスに対する感情は常に変化しています。以下の引用部からは、ユダが自身の抱く感情をとらえかね、上手く言語化できていないのが分かります。
ああ、もう、わからなくなりました。私は何を言っているのだ。(中略)だまされた。あの人は、嘘つきだ。旦那さま。あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった!あの女が、私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。私の言うことは、みんな出鱈目だ。一言も信じないで下さい。わからなくなりました。ごめん下さいまし。ついつい根も葉も無いことを申しました。そんな浅墓な事実なぞ、みじんも無いのです。醜いことを口走りました。だけれども、私は、口惜しいのです。胸を掻きむしりたいほど、口惜しかったのです。なんのわけだか、わかりませぬ。
「愛憎は表裏一体」と言いますが、ユダの感情はまさにそれだと思いました。
臼井氏(※参考)は、「愛情はたえず憎悪に転化しつつあるもの、憎悪はつねに愛情に転化しつつあるもの、むしろ愛情のなかにのみ憎悪があり、憎悪のなかにのみ愛情があるというようたかたちでのみ見出される」と的確に指摘しています。
ユダのイエスヘの愛は憎しみと同時に存在し、それは常に行き来しているのです。そのことにユダ自身も混乱しており、『駈込み訴え』ではユダが自分の気持ちを持て余す様子が描かれています。
こうした矛盾した感情のはざまで苦しむ人物が、太宰の作品にはよく出て来るなと思いました。
臼井吉見「太宰治論」(『現代日本文筆全集第49巻』解説 1954年9月 筑摩書房)
最後に
今回は、太宰治『駈込み訴え』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
『駈込み訴え』は、青空文庫でも読むことができます。ぜひ読んでみて下さい!
↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。