純文学の書評

【川上弘美】『溺レる』のあらすじと内容解説・感想

『溺レる』は、何かから逃げるために旅をする男女の物語です。

今回は、川上弘美『溺レる』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!

『溺レる』の作品概要

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著者川上弘美(かわかみ ひろみ)
発表年1999年
発表形態雑誌掲載
ジャンル短編小説
テーマ不安

『溺レる』は、1999年に文芸雑誌『文學界』で発表された川上弘美の短編小説です。ある男女の逃避行が描かれています。女流文学賞・伊藤整賞受賞作です。

著者:川上弘美について

  • 1958年東京生まれ
  • お茶の水女子大学理学部生物学科卒業
  • 『蛇を踏む』で芥川賞受賞
  • 紫綬褒章受章

川上弘美は、1958年生まれ東京都出身の小説家です。著名な生物学者の父と文学好きの母を持ち、お茶の水女子大学理学部生物学科を卒業後、高校の教員を経て小説家となりました。

『神様』でデビューしたあと、1996年に『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞し、中年女性と初老の男性の恋を描いた『センセイの鞄』がベストセラーとなりました。2019年には、その功績がたたえられて紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章しました。

『溺レる』のあらすじ

コマキは、モウリさんと逃げています。当初は逃げる理由は明確でしたが、だんだんと目的がはっきりしなくなり、コマキは自分でもなぜ逃げているのか分からなくなりました。

それでも、コマキはモウリさんに付き添って逃げ続けます。時には定住してお金を貯め、お金が貯まるとまた旅に出て、2人は「アイヨクにオボレ」るのでした。

登場人物紹介

コマキ

恋人のモウリさんと逃げる女性。従順でもの静かな性格。

モウリさん

コマキを誘って逃げることにした男性。社交的な面と、ふさぎ込むナイーブな面を持っている。

『溺レる』の内容

この先、川上弘美『溺レる』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。

一言で言うと

もの悲しい愛

逃避行

コマキは、恋人のモウリさんと一緒に逃げています。コマキは逃げている理由が分からなくなりながらも、いったん逃げ始めてしまったので逃げ続けています。

コマキが「モウリさん何から逃げてるの」と聞くと、モウリさんは「リフジンなものから逃げてるということでしょうかねえ」と答えました。

 

持ち金が少なくなると、コマキとモウリさんは定住してお金を稼ぎます。あるとき、モウリさんは新聞配達員として雇われ、コマキは新聞販売所の寮の炊事として働くことになりました。

モウリさんは「自転車うまくならないなあ」とふさぎこみますが、コマキとモウリさんは「アイヨクにオボレ」て日々を過ごします。

不安

新聞配達所で3ヶ月働き、2人はまた逃げ始めます。コマキは、一度だけモウリさんと心中の話になったことを思い出しました。

「死ぬの?」「どうしよう」「もっとモウリさんにオボレたい」「じゅうぶんオボレてるじゃない」「そうかな」「そうだよ」という言葉を交わし、2人は海岸を歩きました。

 

長く旅を続け、2人は西の町の海辺に部屋を借りました。モウリさんは、町はずれのゴム工場で働いています。

あるとき、モウリさんは「コマキさん、もう帰れないよ、きっと」と言いました。「帰れないかな」「帰れないなぼくは」「それじゃ、帰らなければいい」「君は帰るの」「帰らない」。そう言ったコマキは、泣き出したモウリさんに身を寄せました。

『溺レる』の解説

川上作品の女性

コマキは冒頭で、「逃げてみますか」とモウリさんに誘われたから逃げ始めたと語っていて、受動的な人物という印象を受けます。

モウリさんが言ったことに対して「はあ」という気のない返事をしたり、行き先も手段もモウリさんに丸投げしたりしている点で、コマキは意思がなく流されやすい性格であることが何となくわかります。

モウリさんが「コマキさん、あなた何も覚えていないんでしょう、世の中のこと、何も身についてないんでしょう」という発言も印象的です。

しかし、後半に近づくにつれて、そのイメージは変わっていきます。「ぼくと一緒に来たことを後悔してますか」とたずねるモウリさんに対して、コマキは意外にもはっきり「してないよ」と言いました。

 

さらに、前半でコマキをリードしていたモウリさんは、実は繊細な一面を持っていたことが、徐々に明らかになります。

モウリさんは、コマキに自分についてきたことを後悔しているかを聞いたり、逃げる前に置いてきたもののことを思ったり、もう元の場所には帰れない不安を打ち明けたりしており、弱い部分を見せています。

一方でコマキは、後半の「君は帰るの」というモウリさんの発言に対して「帰らない」と言い切ったり、小学生のように泣くモウリさんに涙を流さないで身を寄せたりと、意外にも芯のある女性として描かれています。

 

川上作品において、こうした女性主人公の変化はしばしば見られます。『風花』では、当初はのらりくらりと生きて夫の言いなりになっていた主人公ののゆりが、徐々に主導権を握っていく様子が描かれています。

「大人しくて従順に見える女性が、実は軸をしっかり持っている」というのは、川上作品の1つの型なのかもしれません。

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カタカナが示すこと

『溺レる』では、カタカナが多用されています。例えば「リフジンなもの」「せっかくのミチユキなんだから」「カタくカタくイダキアったり」とあり、タイトルに至っては漢字とカタカナと平仮名が混じっています。

私は、このカタカナは、非日常や不確実さを表現するために用いられたのではないかと思いました。

①非日常の演出

カタカナは、異国の言葉を表記するときに使いますが、正体不明のもの(聞いたことのない言葉など)を表現するときにも用います。そのため、カタカナは何となく捉えどころのない雰囲気を漂わせている文字だと思います。

川上弘美の特徴は、幻想的で地に足がついていないような、現実味を帯びない作風です。そのためカタカナは、コマキとモウリさんの一般的な社会生活からは外れた生活の、非日常さを強調する役割があるのではないかと思いました。

②不確実さ

カタカナに注意して読むと、名詞はカタカナになっていますが、動詞は送り仮名だけが平仮名になっていることが分かります(「カタく」は「カタク」ではない。動詞の「カタ」だけがカタカナで、送り仮名の「く」は平仮名になっている)。

これは、「漢字に変換される前」ということを表していると思いました。漢字は表意文字であるため、漢字を当てはめると意味が1つに定まります。逆に「カタく」と表記されると、「カタ」は「堅」なのか「硬」なのか「固」なのか分かりません。

この不確実さ、あいまいさこそ、作者が表現したかったことなのではないでしょうか。

川上弘美は、常に迷っていて、宙ぶらりんの状態で揺れているような人物をよく描きます。彼らは、物事の実態がよく分かっていないからこそ、流されるように生きています(「世間知らず」というキーワードとともに語られることが多いです)。

 

カタカナで表記すること(漢字によって規定されないこと)は、その言葉の意味をきちんと理解できないことだと解釈できます。

つまり、宙ぶらりんのコマキとモウリさんは、「道行」ではなく「ミチユキ(道行のようなもの)」をしていて、「愛欲に溺れ」るのではなく「アイヨクにオボレ」ていた(疑似的に愛欲に溺れていた)のだと思いました。

『溺レる』の感想

川上弘美の日本語

川上弘美は、分りやすくて非常に読みやすい文章を書く作家です。言葉自体は簡単なので子供でも読めますが、子供が読んでも決して内容を理解することはできません。

中学生のころ、江國香織(えくに かおり)の短編集『号泣する準備はできていた』を読んで、書かれている文字は読めるのに、内容が全く理解できなくて歯がゆい思いをしたことがありましたが、まさにそういう類の物語だなと思いました。

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また彼女の文章のポイントは、日本語の魅力を生かしているところだと思います。現代語で書かれているはずなのに、古文のような優雅さ、趣深さ、しとやかさ、のびやかさが感じられる、本当に不思議な文章です。

『溺レる』には官能的な表現が差し込まれますが、その美しい日本語を使った文章によって、上品で雅(みやび)な仕上がりになっています。

燃えているわけではなく、少しずつ首を絞められるような息苦しい愛や、行間のもの悲しさ、哀愁が、古文のような現代語で書かれています。

 

『溺レる』は駆け落ちがモチーフになっているにも関わらず、ドラマチックな展開は少しもありません。

むしろ劇的でなく、文字に書き残さないと記憶からすぐに忘れ去られてしまうような、本当にささいで取りとめのない出来事がつづられています。

そんな出来事がこれほど大切に感じられるのは、川上弘美の美しい日本語で書かれたことが大きいと思いました。

最後に

今回は、川上弘美『溺レる』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。

アンニュイな空気が感じられる、透明度の高い物語です。ぜひ読んでみて下さい!

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yuka
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「純文学を身近なものに」がモットーの社会人。谷崎潤一郎と出会ってから食への興味が倍増し、江戸川乱歩と出会ってから推理小説嫌いを克服。将来の夢は本棚に住むこと!
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