純文学の書評

【菊池寛】『恩讐の彼方に』のあらすじと内容解説・感想|朗読音声付き

勧善懲悪ではない、新しい仇討ちが描かれる『恩讐の彼方に』。

今回は、菊池寛『恩讐の彼方に』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!

『恩讐の彼方に』の作品概要

著者菊池寛(きくち かん)
発表年1919年
発表形態雑誌掲載
ジャンル短編小説
テーマ仇討ち

『恩讐の彼方に』は、1919年1月に雑誌『中央公論』で発表された菊池寛の短編小説です。主人殺しの大罪を犯した男に、父を殺害された息子が仇討ちを決意し、仇とめぐり合ってから思いがけない結末を迎えるまでが描かれています。

著者:菊池寛について

  • 香川県出身
  • 文藝春秋社を創業
  • 芥川賞、直木賞を創設
  • 代表作は『屋上の狂人』『父帰る』『藤十郎の恋』『真珠夫人』など

『恩讐の彼方に』のあらすじ

登場人物紹介

市九郎

旗本である中川三郎兵衛に使える若い武士。中川三郎兵衛の妾であるお弓と関係を持ったことがきっかけで三郎兵衛と一騎打ちすることとなり、主人を殺害してしまう。

お弓

中川三郎兵衛の妾。主人に仕えている市九郎と関係を持つ。

中川三郎兵衛

浅草田原町の旗本。50歳に近い。召し使っていた市九郎に殺害される。

中川実之助

三郎兵衛の息子。3歳のときに父・三郎兵衛を市九郎に殺される。

『恩讐の彼方に』の内容

この先、菊池寛『恩讐の彼方に』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。

一言で言うと

仇討ちの新しい形

主殺しの大罪

安永3年の秋の初めの頃、旗本の中川三郎兵衛の家には三郎兵衛に仕える市九郎という若い武士がいました。

市九郎は三郎兵衛の妾であるお弓と非道の恋をしてしまい、三郎兵衛と戦うことになりました。市九郎は自身の罪を自覚しつつも、命を落とすことは惜しいと思い、主人の振り上げた太刀の先を避けていました。

ところが太刀を受け損じて左の頬からの出血を見た時、市九郎の心はたちまちに変わってしまいます。どうせ死ぬのだと思うと立場が関係なくなり、市九郎は三郎兵衛に飛びかかって刀を交え、ついに三郎兵衛の脇腹を刺してしまいました。

 

倒れた三郎兵衛を見て我に返った市九郎は、自分が主殺しの大罪を犯したことに気がついて後悔の念と恐怖を抱きます。まだびくびくと動いている三郎兵衛の死体を見ながら、市九郎は静かに自殺の覚悟を固めていました。

そんなとき、「ほんとにまあ、どうなることかと思って心配したわ。こうなっちゃ、一刻ときも猶予はしていられないから、有り金をさらって逃げるとしよう」とお弓が市九郎に言い放ちます。

呆然としていた市九郎はその言葉で動き出し、2人は屋敷を去りました。

その頃、3歳になる三郎兵衛の息子・実之助は、父の非業の死も知らずに乳母の懐ろですやすや眠っているのでした。

我に返る市九郎

江戸を逃れた市九郎とお弓が信州から木曾の藪原の宿まで来た時には、2人の所持金は尽きていました。当初2人は美人局で金を調達していましたが、やがてゆすりや強盗をするようになります。

初めはお弓にそそのかされて動いていた市九郎ですが、ついには悪事の面白さを味わい始めていました。こうして2人は、信濃から木曾へかかる鳥居峠(とりいとうげ)で昼は茶店を営み、夜は強盗を働いて生計を立てるようになりました。

 

2人が江戸から出て3年目になる春、ある若い夫婦が茶店にやってきて、市九郎はこの2人から金品を奪おうと企みます。夕暮れ時にようやく茶店を出発した若夫婦を追いかけ、市九郎は2人を殺害し胴巻と衣類を奪ってお弓のもとに帰りました。

ところが女が頭につけていた高価な飾りがないことに気づいたお弓は、「あれだけの衣装を着た女を殺しておきながら、頭のものに気がつかないとは、お前はいつから泥棒稼業におなりなのだえ。なんというどじをやる泥棒だろう」と声高になじります。

市九郎は女の頭の飾りを取ってくるよう命じられましたが、悪事にもお弓にも嫌悪感を抱き始めていた市九郎は動こうとしません。しびれを切らしたお弓が自ら飾りを取りに出ていった隙に、市九郎は茶店から逃げ出しました。

贖罪

美濃国の浄願寺に駆け込んだ市九郎は、出家して了海と名乗るようになりました。そして享保9年の秋、赤間ヶ関から小倉に渡って筑紫にやってきた市九郎は、危険な桟道しかなく、1年に多いときで10名もの人が命を落とす難所の存在を知りました。

そして市九郎は、犠牲者を減らして過去の罪を償うために、桟道を渡らずに済むよう絶壁を掘り貫いて道を作ることを決意します。

ところが、里人は皆「3町をも超える大盤石を掘貫こうという風狂人、はははは」と突拍子もないことを実行しようとする市九郎を笑うばかりでした。

恩讐の彼方に

それから2年が経っても、里人は嘲笑を止めません。4年経つと市九郎が彫った洞窟は5丈の深さになりましたが、それでも絶壁が3町を超えることを考えると微々たるものです。そして9年目の終わり、市九郎は穴の入口から奥まで22間を計るまでに掘り進めました。

市九郎が洞窟を堀り始めて19年経った頃、市九郎の前にかつて殺した主人の息子である実之助が現れます。

実之助は13歳の時に父の死の真実を知って復讐を誓って道場に入り、19歳で市九郎を探す旅に出てから28歳になるまで旅を続け、わずかな情報を頼りになんとか出家して了海と名を変えた市九郎を見つけ出したのです。

 

実之助と対峙した市九郎は死を覚悟し「実之助様、いざお切りなされい」と言いますが、実之助は両目が良く見えず歩くこともままならないほど衰弱した市九郎を見て、親の敵に対して抱いていた憎しみがいつの間にか消え失せていることに気づきます。

間もなく洞窟が堀り貫かれることを知った実之助は、洞窟の完成まで待つことにしました。そして仇討ちの日をただ待つのではなく少しでも早めるため、実之助は洞窟の掘削作業を手伝うようになりました。

 

こうして市九郎が洞窟を掘り始めて21年目、実之助が市九郎に会ってから1年半が経った延享3年9月10日の夜、ついに洞窟を掘り貫くことができました。

市九郎は実之助に「約束の日じゃ。お切りなされい」と言いましたが、実之助はこの偉業に対する驚異と感激で胸がいっぱいになり、市九郎を敵として殺すことはできません。2人はすべてを忘れて、感激の涙にむせび合ったのでした。

『恩讐の彼方に』の解説

異質な結末に対する仕掛け

齋藤氏(参考)は、『恩讐の彼方に』が大衆文学ではなく純文学に分類されることを示したうえで、その理由として「市九郎と実之助の洞門開鑿によって生まれた和解場面」において読者を違和感なく感動へ導くことに成功している点を挙げています。

『恩讐の彼方に』の語りでは。第一章から第三章前半までは市九郎、第三章後半は里人達、第四章は実之助と焦点化する人物が変化していることに着目し、その効果について述べられています。

第三章後半以降は市九郎の内面が語られないため、読者は里人を通してしか市九郎を見ることができなくなります。

里人達の心情と共に客観的に語られることによって、市九郎は己の過去の悪事を悔やみ苦しむ人物から、里人達から馬鹿にされ続けても隧道開鑿を黙々と行う偉大な人物へと変化」していくのです。

 

さらに齋藤氏は登場人物の呼称に目を向け、読者を違和感なく感動へ導くからくりを探ります。

実名で記載される登場人物は三郎兵衛、お弓、市九郎、実之助の4人ですが、「三郎兵衛」「お弓」という呼称は「主人」「女」に置き換えられることがあり、それすらも物語が進むにつれて登場頻度が減っていきます。

市九郎と実之助は最後まで名前が登場しているため存在が印象づき、読者は2人を身近に感じることができます。

 

さらに悪人としての「市九郎」、善人としての「了海」の2つの名が登場します。

実之助と市九郎がめぐり合った当初は「市九郎」の名で語られていますが、一心不乱に穴を掘り続ける市九郎の姿に胸を打たれる実之助の心境の変化と呼応して語りが「了海」に変化することで、仇討ちされないラストを示唆しているのです。

以上の仕掛けにより、仇を討たずに和解するという最後の場面について、読者に納得感を持たせることができたと齋藤は述べています。

齋藤 千帆「菊池寛『恩讐の彼方に』論 : 大正期の仇討ちのイデオロギーを探る」(「東海大学日本語・日本文学研究と注釈 7」2019年9月)

『恩讐の彼方に』の感想

罪滅ぼしされたのか

物語の後半では了海が洞窟を掘りぬくことに身を捧げる様子が仔細に描かれており、市九郎であったときの罪の印象が薄くなり、最終的に実之助が市九郎を赦すことで過去の罪が帳消しになっていると取れるラストを、正直なところすんなり受け入れられませんでした。

市九郎がどれほど身を犠牲にしても、三郎兵衛や若夫婦、物語には詳しく描かれなかったがの市九郎の犠牲になった命と人生は戻りません。

当初市九郎はお弓にけしかけられ、言われるがままに悪事を働いているように見えましたが、それでも市九郎は「ついには悪事の面白さを味わい始めた」とあり、やらされていた感覚が強いとはいえ少なからず悪事に面白味見出していたことは事実です。

 

時間と労力をかけて償えば許されるという考えがナンセンスと言うと、仏教思想そのものを否定することになるかもしれませんが、そんなに虫の良い話はないと思ってしまいます。

だからこそ市九郎が里人から認められたり、改心したように描かれたり、市九郎が実之助に赦されてこの物語が美談として描かれることに違和感を抱きました。

『恩讐の彼方に』の朗読音声

『きりぎりす』の朗読音声はYouTubeで聴くことができます。

最後に

今回は、菊池寛『恩讐の彼方に』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。

青空文庫で読むことができるので、ぜひ読んでみて下さい!

↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。

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yuka
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「純文学を身近なものに」がモットーの社会人。谷崎潤一郎と出会ってから食への興味が倍増し、江戸川乱歩と出会ってから推理小説嫌いを克服。将来の夢は本棚に住むこと!
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