一流大学合格に心血を注ぐクラスメイト、尻軽な幼なじみ、あばずれの母、規範から飛び出ることをおそれる教師……キャラの濃い人物が次々と登場する『ぼくは勉強ができない』。
今回は、山田詠美『ぼくは勉強ができない』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『ぼくは勉強ができない』の作品概要
著者 | 山田詠美(やまだ えいみ) |
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発表年 | 1991年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 連作小説 |
テーマ | 学歴主義へのアンチテーゼ |
『ぼくは勉強ができない』は、1991年に文芸雑誌『新潮』(5月号)で発表された山田詠美の連作小説です。既存の価値観と真っ向に対立する青年の様子が描かれています。
著者:山田詠美について
- 1959年東京生まれ
- 『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞受賞
- 『ジェシーの背骨』が芥川賞候補になる
- 数々の作家に影響を与えている
山田詠美は、1959年生まれ東京都出身の小説家です。『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で第97回直木賞受賞しました。また『ジェシーの背骨』は、受賞こそ逃したものの第95回芥川賞候補になりました。
多くの作家に影響を与えており、『コンビニ人間』『しろいろの街の、その骨の体温の』で知られる村田沙耶香は、「人生で一番読み返した本は、山田詠美『風葬の教室』」と語っています。
『ぼくは勉強ができない』のあらすじ
秀美は勉強ができませんが、女の子にもてるクラスの人気者です。変わった母と祖父に育てられ、周囲とは少し違った価値観を持っています。
そんな秀美は、勉強を強要されたり、片親であることに対して同情されたり、異性と大胆に交遊することを非難されたりします。しかし、秀美は独自の価値観をもってそれらと対峙(たいじ)するのでした。
登場人物紹介
時田秀美(ときた ひでみ)
17歳の高校生。サッカー部所属。勉強ができないクラスの人気者。母子家庭で、多情な母と、女性に目がない祖父に育てられた。
時田仁子(ときた じんこ)
秀美の母。ある出版社に勤める編集者。
時田隆一郎(ときた りゅういちろう)
秀美の祖父。現在進行形のプレイボーイ。
桃子(ももこ)さん
秀美の年上の彼女。バーで働いている。
桜井(さくらい)先生
秀美のクラスの担任でサッカー部顧問。「味わい深い顔」で、女性にもてる。秀美の良き理解者。
真理(まり)
秀美の中学時代からの幼なじみ。異性と派手に交際している。
脇山茂(わきやま しげる)
成績優秀な秀美のクラスメイト。人気者で美形な秀美を目の敵(かたき)にしている。
片山(かたやま)
学校を休みがちな秀美のクラスメイト。マンションから飛び降りて自殺した。
奥村(おくむら)
秀美が小学5年生のときの担任。自由な発想をし、型破りな反応をする秀美や仁子に手を焼く。
『ぼくは勉強ができない』の内容
この先、山田詠美『ぼくは勉強ができない』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
学歴主義へのアンチテーゼ
つまんない人間
勉強ができない秀美は、クラスの人気者です。そんな秀美を良く思っていないのが、勉強することにしか興味がないクラスメイト・脇山です。
脇山はことあるごとに秀美につっかかるため、秀美は幼なじみの真理に協力してもらい、脇山をこらしめることに成功しました。
真理は脇山をその気にさせた挙句(あげく)、「私、勉強しか取り得のない男の人ってやっぱ苦手みたい。つまんないんだもん」と告げたのです。その結果、入学から学年1位を取り続けていた脇山は、期末テストで学年11位に順位を落としてしまったのでした。
女にもてる
夏休みに入り、秀美は恋人の桃子さんが働くバーでウェイターを始めました。
あるときサッカー部の顧問の桜井先生がバーにやってきて、秀美に「おまえ、脇山に何かしたな」とたずねました。桜井先生は「いい顔」をした人で、秀美が一目置いている存在です。
秀美は脇山のことを考えながら、自身がこれまで浴びせられてきた「片親だからねえ」「母親がああだものねえ」「家が貧しいものねえ」などの言葉を思い出しました。
そして、「ぼくは決してつまらない人間ではない。女にもてない男でもない」と思うのでした。
時差ぼけ回復
あるとき、風邪をひいた秀美のもとにクラスメイトの田嶋が見舞いにやって来ました。「見舞いなんて柄じゃないだろ」と言う秀美に、田嶋は「片山が死んだんだ」と告げます。そして、「まず片山の時差ぼけのことを思い出した」と言いました。
以前、秀美と田嶋、片山は時差ぼけの話をしたのでした。片山が本から得たというその情報は、次のようなものでした。
人間は1日25時間を1日の周期で生きる動物で、それを24時間に合わせると1時間の時差が生まれる。普通の人間は上手いこと体を順応させてその1時間を埋めて行くが、一部の人間はそれを行うことができず、不眠症になったりする。
片山は、「ぼくは生まれたときから時差ぼけなんだ」と言いました。
風邪を治した秀美は、少しうきうきしながら駅にたどり着きました。ところが、秀美はそのとき学校に行くのとは反対の電車に乗り込みます。秀美は、自分でもそのときのことを説明することができません。本当に、つい乗ってしまったのでした。
春の陽気に包まれた暖かい車内は、眠るのに最適な場所です。秀美は片山のことを思い出し、「ここで、寝てりゃ良かったのに」と思いました。片山の死を飲みこめずにいた秀美は、そこでようやく涙を流しました。
番外編・眠れる分度器
これは、秀美が小学生のときの物語です。あるとき、5年生の担任をする奥村のもとに、時田秀美という少年が転校してきました。秀美は11歳にしてすべてを悟ったような目で見る子供で、奥村は秀美を他の生徒と同じように可愛いがることができません。
秀美の母親の仁子も変わった人物で、一般的な母親像からはかけ離れています。奥村はそんな親子に手を焼いていました。
しかし、そんな奥村に転機が訪れます。街中で偶然仁子に会った奥村は、仁子とバーに行くことになったのです。2人は、そこで教育について議論を交わします。ふと、奥村はこれまで拒んでいた仁子の言葉に耳を傾け、まるで男同士のように話したのでした。
あるとき始業のチャイムが鳴って奥村が教室にいると、秀美が机の上に座ってなにかを話しています。
奥村が問いただすと、秀美は「ぼくたちは角を持ってるって言いたかっただけなんだ。分度器でちゃんと計んなくたって、その内、まっすぐやまん丸になって、それが失くなっちゃうってことを知らせたかっただけなんだ」と涙ながらに言いました。
途方に暮れた奥村は、国語の授業を生徒にあげることにしました。そしてやけになった奥村は、多摩川の川べりに行くことを提案します。そして重い腰を上げ、子供たちを川へ引率するのでした。
『ぼくは勉強ができない』の解説
学習第一神話
役に立つ知識と飾りの知識
学校での勉強と、恋愛や社交術などの学校以外の勉強。どちらが役に立つ知識で、どちらが飾りの知識でしょうか。一般的には、学校での勉強が役に立つ知識に分類されるでしょう。しかし、『ぼくは勉強ができない』ではまったく逆の主張がなされています。
勉強ができない秀美は、勉強ができる脇山をひどいめに合わせ、また教科書通りに右へならえをする同級生やそれを強要する教師に反感を抱いています。
このように『ぼくは勉強ができない』では、学校での勉強が飾りの知識で、それ以外の勉強が役に立つ知識と位置づけられています。以下に、それを示しているセリフを引用します。
秀美くんは、学校の勉強は出来ないけど、違う勉強が出来てるのよ。決して、お馬鹿さんじゃないわ(「ぼくは勉強ができる」)
これは、桃子さんが秀美に言った言葉です。桃子さんは、学校の勉強が苦手でも、人間として頭の良い秀美を評価しているのです。
また、以下は真理が秀美に言った言葉です。
私は、大学生なんて、だいっ嫌いだけど、大学生になった秀美のことは、好きになるって確信がある。何故って、あんたは、きっと、人とは違う勉強家になるって思うから(「ぼくは勉強ができる」)
学校の勉強ができない秀美は、それ以外の知識には長けています。そうした柔軟な頭を持っている秀美は、100点満点をもらうことを喜びとするただの勉強家とは違い、もっと上の存在になれると真理は言っているのです。
このようにさまざまな人物の語りを通して、『ぼくは勉強ができない』では学校の勉強以外の勉強が存在感を強めます。
即物的
前項に関連して、本作には「即物的」という言葉が登場します。これは、「有事のときに高尚なことを言ってられない」という文脈で使われています。貧血に苦しむクラスメイト・黒川礼子は、以下のようなことを言います。
気分が悪くなってる間ってね、なんにも考えられなくなるの。すごく利己的な自分に気づくのよ。優しさとか思いやりとか、まったく役に立たないのよ。世界情勢がどうなるとか、環境保護が叫ばれてるとか、そういうことが、意味をなさなくなっちゃう。(「あなたの高尚な悩み」)
確かに、今日明日の食糧が確保できない状況で世界平和を語ることはできないし、二日酔いで苦しんでいるときにデカルトの哲学について考える余裕はありません。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』のように、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ(あらゆることを 自分のを勘定に入れずに)」なんてことは、実際かなり難しいのです。
この黒川礼子の発言が示しているのは、「緊急事態のときは、ピタゴラスの定義もフランス革命の年号もなんの役にも立たない」ということだと思います。
「だからこそ、そんなもの(学校の勉強)に100%の心血を注ぐのはいかがなものか」という主張が浮かび上がって来ます。ここでは、役に立つと思われている知識が脆(もろ)いことが提示されています。
型にはまることのワナ
「時差ぼけ回復」では、人間の周期は実は25時間だという考えが提示されていました。それに上手く順応できなかった片山は、1時間を持て余し、24時間に矯正しようとして(型にはめようとして)自滅してしまいました。
一方で秀美は、自分が25時間の人だとは強く意識していない(うまく24時間に身体を慣らしている)タイプの人間です。
それゆえ、理由もなく学校とは反対の電車に乗ってしまうような、臨機応変を持ち合わせています。同時に、突拍子(とっぴょうし)もないことをする可能性を秘めています。
真人間は、始業に間に合わないことに気づきながらも、電車に揺られてゆるゆるとした時間を過ごすことしないでしょう。秀美は柔軟な考えを持っているからこそそういうことができ、それが余裕を生み、適度な休息となっているのです。
事実、秀美は「他愛のない喜び、それが日々のひずみを埋めて行く場合もあると、ぼくは思うのだ」と語っています。
「時差ぼけ回復」を読んで思ったのは、ちょっとした遊び心や、たまには型から外れてみることが大切だということです。それができるのは、「勉強ができない」人と柔らかい頭を持った「勉強ができる」人だと思いました。
グレーゾーンだって必要
『ぼくは勉強ができない』には、0か100かの極端な人物が多数登場します。
100%の力を勉強に注ぐ秀美のクラスメイト・脇山、母子家庭というだけで秀美に「かわいそうな子」というレッテルを貼る大人、「不純異性交遊は勉強の妨げになる」と本気で信じる教師などです。秀美は、そんな人物と出会うたびに不満を抱きます。
こうした彼らの強い思い込み・白黒はっきりつけたがる習性は、内実を知らないことに起因しているのではないかと思います。
脇山は、恋愛の楽しさを知っていればもう少し柔らかい頭を持つことができたはずだし、母子家庭でも幸せな家族はいくらでも存在するということを知れば、人々の世界はもっと広がったはずです。
それぞれにはそれぞれの事情・背景があるため、中身を知らないで決めつけるのはナンセンスだということです。
「父親がいないからかわいそう」「恋愛にかまけているから勉強ができない」というように二極化するのではなく、中間も必要だという考えが作中には潜んでいると思います。
『ぼくは勉強ができない』の感想
学歴主義へのアンチテーゼ
大学を出ないとろくな人間になれない。脇山は、何の疑問も持たない様子で、そう口にした。何故なら、そう教える人間たちがいるからだ。(「ぼくは勉強ができない」)
「ぼくは勉強ができない」には、学歴を偏重する秀美のクラスメイト・脇山が登場します。そんな脇山の考えに疑問を抱いた秀美は、幼なじみの真理に協力してもらい、脇山をこらしめてやりました。
秀美は尖った考えを持ちながらも、周りとうまく付き合う術を身につけています。斜に構えてまわりを拒絶するのではなく、確固たる自己を持ったまま周囲に溶け込んでいるのです。
読み終えた後、そんな秀美の人間的な魅力に惹かれてしまいました。このことからも、人としての奥深さは学校の勉強では身につかないのだと感じました。
先生を目指す人は必読
学校や教室という場所は、とても不思議な空間です。道徳の時間では「個性を大事に」と教えられるのに、実際に枠からはみ出たことをすると異物とみなされ、排除される(いじめられる)。
先生は個性の大切さを説きながらも、正直生徒には周りと合わせることを期待しているのではないかと思います(その方がまとめやすいから)。
個性の尊重と協調のバランスをどうとるかが難しいところだと思いますが、『ぼくは勉強ができない』にはまさにこの悩みに直面する教師が登場します。
悩める教師
番外編の「眠れる分度器」では、教育の方法に頭を悩ませる小学校教師・奥村が登場します。
奥村のクラスに転校してきた時田秀美という少年は、他の子供とは違う感覚を持っていました。大人に媚びず、従わず、強い自己を持った秀美は奥村を混乱させます。奥村自身の当たり前をくつがえす秀美を、奥村は良く思っていませんでした。
しかし、秀美やその母・仁子との対話を通して、奥村は徐々に自身の考えを改めます。
奥村は、ルールからはみ出ること・規範に従わないことを悪とする石頭です。そんな奥村が、物語の最後に国語の授業を中断して「多摩川の川べりにでも行って遊ぶか。天気もいいし」という発言したところには、心を揺さぶられました。
教育現場が「同じ価値観を持った人間を量産している」と評されたとき、誰もがその状況を変えなければならないと思うはずです。しかし、その体制は今日に至るまで変わっていないように思われます。
その原因は、多様性を大切にしなければならないと頭では理解しているものの、現場ではそれが実行できていないからではないでしょうか。
しかし、多様性のない同質化した集団の方が制御しやすいのは事実です。これから先生になる人は、「制御不能にならない程度に個性を尊重する」というとんでもなく難しい課題を与えられるのだと思いました。
枠からはみ出るということ
『ぼくは勉強ができない』には、規格外のエピソードや、一般的には非道徳とされる出来事が盛りだくさんです。
秀美が恋多き母と祖父に育てられているのも、家族間でおおっぴらに性の話をするのも、理想の母親像を掲げる奥村にたいして仁子が反論するのも、普通は良いこととみなされていません。
秀美が「秀美」という女性らしい名前を付けられていることも、この常識破りな新しさを象徴しているように感じられます。
ぼくらシリーズ
既存の価値観や大人に反発する秀美を見ていて思い出したのは、宗田理(そうだ おさむ)さんのぼくらシリーズです。
シリーズ一作目となる『ぼくらの七日間戦争』は、中学1年2組の男子生徒が廃工場に立てこもり、女子生徒と連携して大人たちに立ち向かうというストーリーです。
秀美は確固たる意志を持って1人で戦うという感じですが、ぼくらシリーズではクラスで団結して旧式な価値観に対抗するという、また違ったワクワク感を得ることができます。
子供向けの小説で、実際に私も小学生のときに読みましたが、いまだに読み返すくらい好きなシリーズです。いつの間にか従順な人間になってしまった大人を、奮い立たせるような物語です。
『ぼくは勉強ができない』の名言
大人の女の立場から言わせてもらうと、社会から外れないように外れないように怯えて、自分自身の価値観をそこにゆだねてる男ってちっとも魅力ないわ。(「眠れる分度器」)
秀美の母親の仁子が、秀美の小学校5年生のときの担任・奥村に放った言葉です。
『ぼくは勉強ができない』では、「学校の勉強こそが正義だ」「枠から飛び出ることは悪だ」という旧来の考え方が、いろいろな形で批判されています。
この仁子の言葉は、そのことを端的に表現していて、もっとも分かりやすく、かつ心に刺さる言いまわしだと感じたため、「名言」に挙げました。
最後に
今回は、山田詠美『ぼくは勉強ができない』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!