『ヴィヨンの妻』は、太宰が亡くなる約1年前に書かれた短編小説です。タイトルになっているフランソワ・ヴィヨンという人物や、さっちゃんのモデルとなった人物の紹介をします。
今回は、太宰治『ヴィヨンの妻』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『ヴィヨンの妻』の作品概要
著者 | 太宰治(だざい おさむ) |
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発表年 | 1947年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 生 |
『ヴィヨンの妻』は、1947年に文芸雑誌『展望』(3月号)で発表された太宰治の短編小説です。クリスマスの前々夜に盗みを犯した奔放な夫を、妻のさっちゃんが支える様子が描かれています。
さっちゃんのモデルは、太宰の正妻である津島美和子という女性です。2人の子供を育て、3人目を身ごもりながら過程を守った人物です。
初版は、1950(昭和25)年12月20日に新潮社から発行されたものです。Kindle版は無料¥0で読むことができます。
著者:太宰治について
- 無頼(ぶらい)派作家
- 自殺を3度失敗
- 青森の大地主の家に生まれた
- マルキシズムの運動に参加するも挫折した
太宰治は、坂口安吾(さかぐち あんご)、伊藤整(いとう せい)と同じ「無頼派」に属する作家です。前期・中期・後期で作風が異なり、特に中期の自由で明るい雰囲気は、前期・後期とは一線を画しています。
実家がお金持ちだった太宰は、成長するにつれて地主の家の子であることに後ろめたさを感じるようになります。そして社会主義の運動をするも挫折し、その心の弱さから自殺未遂を繰り返しました。
『ヴィヨンの妻』のあらすじ
さっちゃんは、男爵の次男で、東大を卒業した詩人の大谷の妻です。ある夜、大谷が通っていた椿屋という小料理屋から、主人とその奥さんがやって来ます。
2人は、「大谷が金を奪って逃げた」と主張して大谷とつかみ合います。大谷が逃げた後、さっちゃんは2人の話を聞きました。そして、さっちゃんは大谷が家に帰らずにしていたことの全容を知ることになります。
登場人物紹介
大谷(おおたに)
実家がお金持ちで、自身は東大出身のエリート詩人。家庭をかえりみずに放蕩(ほうとう。遊ぶこと)の限りを尽くす。
さっちゃん
26歳の大谷の妻。年の割に落ち着いていて、大谷が犯罪を犯しても平静さを失わない肝の据わった人物。
椿屋(つばきや)の主人
妻と小料理屋を経営する人物。金を払わずに飲み食いする大谷の振る舞いに困り果てている。
『ヴィヨンの妻』の内容
この先、太宰治『ヴィヨンの妻』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
甲斐性なし夫と、それを支える妻
深夜の帰宅
戦後の日本。さっちゃんは夫と2歳になる息子と暮らしています。しかし、夫の大谷は一度出かけたら3~4日帰ってこないこともあり、たまに帰ってきても泥酔している状態です。
その夜も、大谷は酔って帰ってきました。すると、玄関から大谷を呼ぶ声が聞こえます。大谷が出ていき、さっちゃんは彼らの会話を寝室で聞いていました。
口論に発展したため、さっちゃんが出ていくと、すきを突いた大谷は逃げてしまいました。さっちゃんは仕方なく、家に来た50歳過ぎくらいの男性と40歳前後の女性を家に入れました。
彼らは、大谷が馴染みにしている「椿屋」という小料理屋の主人とその奥さんでした。そして、普段から飲み代を踏み倒されているのに加えて、今夜は5千円を盗んだため、家まで取り立てに来たのだと言います。
さっちゃんは、「後の始末は私が引き受けます」と言って、彼らに引き取ってもらいました。
解決
翌朝、後始末は引き受けるとは言ったものの、なんの当てもないさっちゃんは途方に暮れてしまいました。ところが、仕方なく椿屋に出向いたさっちゃんは、別人のように振舞います。
さっちゃんは、椿屋の勝手口から店に入ると、昨日家に来た女性に「お金は返せそうです」と思ってもいない嘘をすらすらと言いました。
そして、そのまま椿屋で従業員として働き始めます。すると、タイミングよく1人の女性を連れた大谷が店にやって来ました。そして、大谷と椿屋の主人が店の外に出ていくのを見たさっちゃんは、ほっと胸をなでおろします。
そして30分ほど経って椿屋の主人が店に戻り、「金は返してもらった」とさっちゃんに告げました。
「椿屋のさっちゃん」の誕生
それから椿屋で働き始めたさっちゃんは、「椿屋のさっちゃん」という名前で通るようになりました。さっちゃんは、椿屋での仕事の帰りに客としてきた大谷と一緒に帰ることもあり、とても幸せでした。
その頃、さっちゃんは椿屋に来る人が1人残らず犯罪者だということに気がつきます(椿屋では、闇ルートで仕入れた酒を扱っていました)。
かく言うさっちゃんも、ある夜椿屋に訪れた客に犯されてしまいました。さっちゃんは、人は罪を犯さずには生きていけないと悟ります。
次の日、さっちゃんはいつもと同じように椿屋に出勤しました。そこには、大谷の姿がありました。
そこで彼は、自分が新聞で人非人(にんぴにん。ひとでなし)と書かれていることを嘆きますが、さっちゃんは「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と言いました。
『ヴィヨンの妻』の解説
なぜ『大谷の妻』ではなく『ヴィヨンの妻』なのか?
「ヴィヨン」という単語が小説内に登場するのは、さっちゃんが電車でポスターを見て言った「その雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」という題の長い論文を発表している様子でした。」というシーンだけです。
それにもかかわらず、なぜタイトルは『大谷の妻』ではなく『ヴィヨンの妻』なのでしょうか?
それを解明するために、まずは「フランソワ・ヴィヨン」 とはどういう人物なのか見ていく必要があります。彼は、15世紀のフランス詩人です。
優秀な詩人である一方、私生活は荒れに荒れていて、殺人や窃盗、売春に明け暮れた生活を送っていました。
太宰は、そんなヴィヨンの詩に深く共感していて、『ヴィヨンの妻』以外にもヴィヨンの影響を受けた作品を発表しています。
ヴィヨン | 大谷 | |
職業 | 詩人 | 詩人 |
生きた時代 | 百年戦争直後 | 終戦直後 |
女性関係 | 「恋の殉職者」 | 奔放 |
犯罪 | クリスマスに500エキユを盗んだ | クリスマスの前々夜に5000円を盗んだ |
さらに、大谷とヴィヨンは多くの共通点を持っています。放蕩家のヴィヨンには貧弱、刃傷行為、放浪、饗宴というイメージがあります。
このような部分も大谷の持つイメージ(大谷はいつも何かに怯えていたり、椿屋の主人に対して刃物を向けたり、何日も家に帰らなかったり、バーの女の子と派手に飲んだりしている)も酷似しています。
太宰自身、私生活でたくさんの女性と関係を持っており、酒や薬物を常用していたので、ヴィヨンの作品だけでなく彼の生き方にも共感したのかもしれません。大谷はヴィヨンをモデルにして書かれた人物だということが分かります。
また、「ヴィヨン」という単語が表面に登場するのはたった数回ですが、彼は大谷の人物像や作中の細かいエピソード、太宰の心に大きな影響を及ぼしている事も分かります。だからこそ、タイトルに「ヴィヨン」が用いられたのだと思います。
「ヴィヨンの妻」は誰のこと?
普通に読めば、「ヴィヨンの妻」はさっちゃんのことを指すことがわかります。ですが、私はそこに突っ込みたいと思います。なぜなら、さっちゃんは大谷の内縁の妻であり、正式な妻ではないからです。
大谷が関係を持っている女性で、小説の中で確認できるのは、①さっちゃん、②おかみさん、③秋ちゃん、④秋ちゃんに知られては困るらしい内緒の女のひと、⑤椿屋で雇われていた20歳の女の子、⑥京橋のバーのマダムの6人です。
特に⑥の京橋のマダムのことを、さっちゃんは「奥さん」と呼んでいました。広辞苑で「奥さん」を調べてみると、「他人の妻を尊敬する言葉」とありました。
ということは、さっちゃんは大谷に自分の他に「妻」と呼べる関係の人がいることを知っていた事が分かります。
もしかしたら、単に成人の女性に対して尊敬の気持ちをこめてそう呼んだのかもしれませんが、よりによって夫に付き添っている女の人のことを、普通「奥さん」とは呼べないと思います。
さっちゃんは、「(大谷が)三晩も四晩も、いいえ、ひとつきも帰らぬ事もございまして、」と平気で言ってのけ、「どこで何をしている事やら」と諦めとも無関心とも取れる言動をしています。
つまり、さっちゃんは大谷に自分の他に「妻」がいることを許容していることがわかります。
また、大谷と関係を持っている女性はみな客商売や女給(ホステスのような人)をしているのも注目すべき点だと思います。
このような女性の中から相手を選ぶということから、大谷が真面目な付き合いを望んでいないことが言えます。
大谷は、1人の女性と結婚という契約を結んで、家庭に縛り付けられることを恐怖に感じています。彼はいろいろな女性と関係を持ちたいと考えているので、女性とは広く浅く、ライトに付き合いたいという欲望持っていると考えられます。
それを叶える都合の良いものは、「内縁の妻」に代表されるような曖昧な関係です。そのため、大谷にはさっちゃんのような「内縁の妻っぽい人」が複数いたとは考えられないでしょうか。
よって、「ヴィヨンの妻」という単語には「ヴィヨン=大谷と曖昧な関係にある女たち」というニュアンスが含まれているのでは?と私は考えています。つまり、「ヴィヨンの妻はいっぱいいる」というのが、私の見解です。
椿屋はどういう場所なのか?
さっちゃんは、ある時を境に別人のように変貌します。具体的には、態度や言葉遣いが大きく変わります。それは、椿屋で働くようになってからなので、今度は椿屋という場所について考えたいと思います。
その前に、さっちゃんの言葉遣いの変化を見てみます。まず椿屋の主人とその妻に対してです。以下、5千円を盗んだ大谷が逃げた後、椿屋の主人とその妻と話をするシーンです。
- 畳が汚うございますから、どうぞ、こんなものでも、おあてになって。
- はじめてお目にかかります。
- おわびの申し上げようもございません。
というように、懇切丁寧な言葉遣いと仕草でもてなしています。夫が窃盗したことに加え、怒り心頭の夫婦が押しかけてきている場面で、ここまで落ち着いた対応ができることから、さっちゃんが相当腹の座った人物だということがこのシーンから読み取れます。
一方で、椿屋に出入りするようになってからは、
- おばさん、本当よ。かくじつに、ここへ持って来てくれるひとがあるのよ。
- 私のことは、黙っててね。
- そう。よかったわね。全部?
- おじさん、あすから私を、ここで働かせてくれない?ね、そうして!
と急に子供じみた話し言葉になり、椿屋の主人とその妻を「ご亭主」「おかみさん」と呼んでいたところから「おじさん」「おばさん」という風にも変わっています。
さらに大谷に対しては、
- おかえりなさいまし。ご飯は、おすみですか?
と丁寧な言葉遣いで接し、自分は寝ているにもかかわらず、亭主の食事を案じる献身的な妻としてのさっちゃん像が浮かんできます。一方で椿屋で働き始めてからは、
- あのおかみさんを、かすめたでしょう。
- そうするわ。あの家をいつまでも借りてるのは、意味ないもの。
- 私たちは、生きていさえすればいいのよ。
とフランクな話し言葉に変化したことに加えて、どこか大谷を見透かしているような印象を受ける話し方をするようになります。
それまでも、「どこで何をしている事やら」という言葉に現れているように、大谷を下に見ていると感じられる箇所がありました。しかし、それが心内語ではなく発言に現れるのは、椿屋で働き始めてからです。
さっちゃんを変えた要因の1つは、椿屋が人が集まるという特性を持っていることだと考えています。それまで、さっちゃんは大谷と息子という狭い共同体の中で生きていました。
(社会と隔絶された専業主婦は、うつ病になる確率が高いそうです。外部の人と接せずに家の中に閉じこもることは、人の精神衛生上良くないことなのだと思います)
一方で、椿屋の一部として働くことになったさっちゃんは、そこに集まる人とコミュニケーションを取ること(社会と関わること)に喜びを感じています。
もう1つの要因は、さっちゃんが椿屋で女として求められる存在だからです。美貌の持ち主で、かつ冗談を交えた楽しい会話ができるさっちゃんは、男性客からの人気を集めました。
それは、それまで大谷に求められてこなかった反動で、「可愛い」「美人だ」と客からもてはやされることで、女としての喜びを感じているからではないでしょうか。
さらに、もう1つ例をあげます。客にレイプされたさっちゃんは、「神がいるなら、出て来て下さい!私は、お正月の末に、お店のお客にけがされました」と一応嘆きます。
ところが、「私は、あっけなくその男の手にいれられました」という文章から、彼女は無抵抗だったと推測できます。
しかもさっちゃんは、明らかに自分に好意のある客と一緒に帰り、泥酔したまま再び家にやってきたその客を泊めてやりました(客は、大谷が不在であることを多分知っています)。
その後何が起こるかは、誰でも想像がつくはずです。さっちゃんもそれはおそらく察していて、にもかかわらず彼を家に入れたのは、さっちゃんが女として愛されることの快感を思い出したからではないでしょうか。
彼女が悲劇のヒロインを演じたのは、読者の同情を得るためのポーズだったのではないかと思います。
さっちゃんは、椿屋で社会と関わる喜びを感じて、女として求められる快感を覚え、「大谷の妻」として消極的に生きることを強いられた閉鎖的な家から脱出し、椿屋という開かれた場所で「椿屋のさっちゃん」として積極的に生きる強い女性に生まれ変わりました。
椿屋は、このようにさっちゃんを脱皮させる場所として機能しているのです。「脱皮」という言葉を使ったのは、脱ぎ捨てた皮をもう一度着ることはできないからです。
「椿屋のさっちゃん」には「大谷の妻」に戻るメリットがないため、「大谷の妻」の棲家(すみか)であった家のことを「いつまでも借りてるのは、意味がないもの」と言い切ったのだと思います。
『ヴィヨンの妻』の感想
太宰が描く女性
私は、太宰が書く男性があまり好きではないです。常に死ぬことを考えているくせに、臆病な性格がたたって結局死ねずにだらだら生きているからです。
正体不明の恐怖を拭うために、酒や薬物、女性という快楽を求めて廃人のように生き延びていて、それでいて顔が良いからモテるというのがまた憎いです。
ただ、太宰が書く女性は好きです。皆後ろめたいことを隠しながら、それでも自分で未来を切り開いていくしたたかさを持っている人が多いような気がします。
例に漏れずさっちゃんもそうで、「私たちは、生きていさえすればいいのよ」と大谷に言い放つのが本当にかっこいいです。彼女のこのセリフで、小説が終わっているのもまた良いです。
「大谷の妻」という皮を脱ぎ捨てて「椿屋のさっちゃん」に生まれ変わったさっちゃんは、今後も罪(大谷以外の男性と関係を持つこと)を犯すと予想できます。
大谷としては面白くないでしょうが、これまで大谷の傍若無人な態度に耐えてきたさっちゃんに許される権利だと思います。
最後に
今回は、太宰治『ヴィヨンの妻』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
弱い太宰だからこそ描ける女性が魅力的なので、ぜひ読んでみて下さい!
↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。