冷めて死んだような夫婦生活を送る2人の男女が、女子トイレでの文通を機に生き返る『オニオンブレス』。
今回は、山田詠美『オニオンブレス』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『オニオンブレス』の作品概要
著者 | 山田詠美(やまだ えいみ) |
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発表年 | 1986年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 愛 |
『オニオンブレス』は、1986年に文芸雑誌『文学界』(4月号)で発表された山田詠美の短編小説です。失業してバーに入り浸っている男が、トイレに書かれた落書きをきっかけに1人の女と心を通わせる様子が描かれています。
著者:山田詠美について
- 1959年東京生まれ
- 『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞受賞
- 『ジェシーの背骨』が芥川賞候補になる
- 数々の作家に影響を与えている
山田詠美は、1959年生まれ東京都出身の小説家です。『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で第97回直木賞受賞しました。また『ジェシーの背骨』は、受賞こそ逃したものの第95回芥川賞候補になりました。
多くの作家に影響を与えており、『コンビニ人間』『しろいろの街の、その骨の体温の』で知られる村田沙耶香は、「人生で一番読み返した本は、山田詠美『風葬の教室』」と語っています。
『オニオンブレス』のあらすじ
上品とは言えないクラブ・エクスタシーガレージに通うシドニーは、ある夜女子トイレに「あの人のオニオンブレス(臭い息)には我慢が出来ない。誰か私を助けて」と書いてあるのを見つけます。
興味を持ったシドニーは、その走り書きの下に「君を助けたら、僕のことも助けてくれる?」と返事を書きました。
その夜から、シドニーとまだ見ぬ女との文通が始まります。妻に絶望して人を愛せなくなっていたシドニーは、その女とのやりとりを通して人間らしさを徐々に取り戻していきます。そして最後、シドニーはその女の正体を知って驚くのでした。
登場人物紹介
シドニー
エクスタシーガレージに通っている男。肉切り職人として働いている。
ネット
夫との冷めた夫婦生活を送りつつ、クラブに通い始めた女。
『オニオンブレス』の内容
この先、山田詠美『オニオンブレス』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
愛を忘れた男女
シドニー
あるときシドニーは、エクスタシーガレージというクラブの女子トイレで「あの人のオニオンブレスには我慢が出来ない。誰か私を助けて」という走り書きを見つけます。シドニーはその下に「君を助けたら、僕のことも助けてくれる?」と続けました。
妻との夫婦生活が上手くいっていないシドニーは、週末の晩にクラブで夜を明かすことを習慣としていたのでした。
しかし、シドニーに声をかける女性はいません。無精ひげを生やしたシドニーの顔は脂じみていて、彼はいつも古びた上着を着ていたからです。
ネット
目を覚ましたネットは、カウチで寝ている夫に目をやります。いびきをかきながら臭い息を吐く夫の口まわりには、ピクルスのかけらがこびりついています。
ネットと夫の関係は、夫の失業をきっかけに壊れてしまいました。夫は失業のショックで外をさまようようになり、その間にネットは他の男性と関係を持ってしまったのでした。
そしてネットはめかし込み、夫を起こさないようにエクスタシーガレージに向かいます。
メッセージ
エクスタシーガレージの女子トイレに入ったネットは、何気なく書いた落書きに返答されていることに気づきます。ネットは「もちろんよ。でも私を助けたいなら、最初に私の体を暖めなくてはだめ」と書きました。
おしゃべりな女の話に付き合っていたシドニーが女子トイレをのぞくと、自分が書いた文字の下に「もちろんよ。でも私を助けたいなら、最初に私の体を暖めなくてはだめ」と書いてあるのを見ました。
シドニーは有頂天になり、またそこに返事を書きました。
許す
フロアに戻ったネットは、家を出る前の夫との会話を思い出していました。「遅くなるのかい?」「そうでもないわ。アイダの家に行くだけだから」という会話を交わしましたが、ネットはどう見ても女友達の家に行く格好をしていません。
(私のことは)どうでもいいって言うのね、と思いながらネットは家を出てきたのでした。
シドニーは、妻の浮気現場を目撃したときのことを思い出します。そして「あなたは私のすべてを許せる?」という女の走り書きへの返事を考えながら、実は自分が妻を許したいと思っていることに気づきました。
ベールがはがれる
そして女子トイレに残るメッセージに女の口紅の跡が付いているのを見たシドニーは、自分が生きている実感を取り戻します。シドニーが女の口紅に自分の唇を重ねたとき、ちょうどトイレのドアが開いて自分の妻が入ってきました。
ネットは、自分が付けた口紅に夫が唇をつけているのを見て、「あんただったなんて……」とつぶやきます。
シドニーは、失業時のネットの裏切りでひどく傷つけられたと思っていましたが、自分の行動で同じくネットも傷ついていたのだと悟りました。
シドニーはネットを抱きしめ、彼女の胸の中で泣きじゃくります。シドニーはその間に臭い息を吐き続けましたが、ネットはそれが全く気にならないのでした。
『オニオンブレス』の解説
こっちを向いて
「心の不能者」という言葉が登場しますが、シドニーとネットはお互いを傷つけあって死んだようになっていました。
それまで、2人は激しく愛し合っていました。しかし、シドニーの失業を機にネットがシドニーへ失望し、失業のショックでシドニーが放浪するようになったことと重なって、ネットは過ちを犯してしまいます。
そしてそのことがシドニーを深く傷つけ、2人の関係はおかしくなってしまったのでした。
そんな2人の心を生き返らせたのは、女子トイレで交わしたメッセージの数々です。2人は熱い思いを伝え合いますが、結局求めていたのは体ではないことが読み取れます。以下はネットについての語りの引用です。
彼女は捜し続ける。自分と会話する意志を持ったその人物を。(中略)ベイビー。ベイビー!そのありふれた呼びかけが、個人に向けられた場合、それは、最もやさしい固有名詞に変わるのだ。
また、以下はシドニーの語りです。
餓死寸前の子供が一切れのパンに跳びつくように、彼は自分に語りかけている数行のメッセージに思いをはせた。もう、自分は人を愛せるのだ。
「彼女は捜し続ける。自分と会話する意志を持ったその人物を」「彼は自分に語りかけている数行のメッセージに思いをはせた」という言葉には、「こっちを向いてほしい」という欲望が表れています。
すべてを愛せる
ネットがシドニーを深く愛していることは言葉の片鱗からうかがえますが、特にそれが表れているのが最後の一文です。
彼の嗚咽と共に、やはり臭い息は吐き出され続けたが、料理の時に刻む玉ねぎの匂い程にも、彼女は気にならなかった。
和解前は、「臭い息がのろしのように立ち上る」などといかにも嫌なものという風に描写されていましたが、和解後のシドニーの息はまったく違うものとして捉えられていることが分かります。
顎の無精ひげ。伸び過ぎた爪。黒ずんでいる。前は、これらのものが少しも気にならなかった。彼女は夫のために喜んで爪切りを握ったのだ。(中略)床に散らばった爪を彼女はよく掃除し忘れて踏んづけた。その時の微笑ましい痛み。
以上の引用部にも、ネットのシドニーへの愛の深さが表れています。
『オニオンブレス』の感想
愛憎
『オニオンブレス』の一節に、こんなものがあります。
ネットは自分と夫の生活を思い出す。彼らは愛し合い過ぎて憎み合い過ぎた。
確かにネットの夫への愛はすさまじく、「あたしはいつも彼を殺して食べちゃいたいと思ってる」と言って友人を呆れさせるほどです。それはシドニーも同じだったのでしょう。
そこで思い出したのが、堀辰雄『聖家族』に登場する九鬼と細木夫人です。『聖家族』は九鬼という男の死から始まる物語ですが、彼らもお互いを傷つけあうように愛し合う関係でした。
激しく愛するがゆえ、それをひっくり返したときの憎しみもそれだけ激しいものになるのです。
最後に
今回は、山田詠美『オニオンブレス』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!