借金王の異名を持ち、幻想的な世界観とユーモラスな一面の両方を兼ね備えた作家・内田百閒(うちだ ひゃっけん)。
今回は、内田百閒のプロフィールと代表作、名言を紹介します!
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内田百閒の基本データ
※画像は「別冊太陽 内田百閒 イヤダカラ、イヤダの流儀」(2008年9月初版 平凡社)より抜粋
本名 | 内田栄造(うちだ えいぞう) |
出身地 | 岡山県 |
生きた時代 | 1889(明治22)年~1971(昭和46)年 |
主な著書 | 『冥途(めいど)』 『阿房列車(あぼうれっしゃ)』 『百鬼園随筆(ひゃっきえんずいひつ)』 |
尊敬した人 | 夏目漱石(なつめ そうせき) |
親交のあった主な作家 | 芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) 鈴木三重吉(すずき みえきち) 小宮豊隆(こみや とよたか) 森田草平(もりた そうへい) |
性格 | わがまま |
キーワード | 幻想・「イヤダカラ、イヤダ」・猫・旅行・借金 |
内田百閒は本名を内田栄造と言い、1889年に生まれて1971年に亡くなった岡山県出身の小説家です。百鬼園(ひゃっきえん)という別の呼び名があり、汽車や借金、漱石の話などをつづった随筆『百鬼園随筆』は、ベストセラーとなりました。
新潮文庫の表紙のなんともユーモラスな画は、芥川が書いた百閒の似顔絵です。貧乏になってしまった百閒のために、芥川が出版社へ原稿料を前借りしに行った際、原稿に描いたものです。2人が気の置けない関係だったことがうかがえるエピソードです。
また、百閒は夏目漱石の弟子でした。他の弟子には寺田寅彦(てらだ とらひこ)・鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平などがおり、芥川と出会ったのは漱石の弟子になったことがきっかけです。
岡山県と、岡山県の文化財団が共催する内田百閒文学賞というものがあります。これは、舞台を岡山県に設定したり、岡山県出身の人物を登場させた作品を対象にする賞です。
また、百閒の記念館は吉備路(きびじ)文学館というところです。吉備路は岡山県の地名で、吉備路文学館には明治以後の吉備路ゆかりの小説家等の著書や資料が展示されています。
内田百閒のプロフィール
栄枯盛衰(えいこせいすい)
1889年、内田栄造は裕福な酒屋に生まれました。一人っ子だったということもあり、百閒は大切に、わがままに育てられました。
中学時代までは豊かな生活を送っていた百閒ですが、次第に家が傾き始めます。追い打ちをかけるように、百閒が16歳のときに父親が亡くなってしまいました。
作家デビュー
16歳のときに出会った『吾輩は猫である』をきっかけに、百閒は夏目漱石の大ファンになります。そして東京帝国大学(現在の東大)に進学した百閒は、漱石の弟子になりました。
それからドイツ語教師を経て『冥途』を発表し、百閒は作家としてのキャリアを歩み始めます。室生犀星(むろう さいせい)から絶賛された随筆『百鬼園随筆』は、ベストセラーとなりました。
晩年
50歳になった百閒は、日本郵船の社内文書の添削をする社員として働くようになります。戦後は、目的もなく列車に乗って豪遊し、それを『阿房列車』という作品にして発表しました。
1950年からは、法政大学ドイツ語教師時代の教え子を中心に、百閒の誕生日を祝う「摩阿陀会(まあだかい)」が始まりました。かくれんぼの「もういいかい まあだだよ」にかけた、長寿を祝う合言葉が由来となっています。
しかし、次第に足腰が弱くなって百閒は摩阿陀会には出席できなくなり、1971年に81歳で亡くなりました。
内田百閒のキーワード
夏目漱石
16歳のとき、百閒は夏目漱石にハマります。百閒は大学生のころに漱石をたずね、弟子となりました。
漱石をリスペクトしていた百閒は、漱石に書や画を書いてもらったり、漱石が書き損じた原稿用紙を持ち帰るなど、度が過ぎるほどのファンでした。
1949年には、漱石の『吾輩は猫である』の続編として『贋作吾輩は猫である』の連載をスタートさせます。
『吾輩は猫である』は、吾輩が水がめでおぼれて意識が遠のくところで終わりますが、『贋作吾輩は猫である』はその吾輩が生きているという設定の物語です。『吾輩は猫である』と異なる部分がたくさんあるため、比較しながら読むと面白いと思います!
芥川龍之介
芥川は漱石の弟子で、そのつながりで百閒と芥川の交流は始まりました。芥川は百閒の良き理解者で、デビュー当時注目されなかった百閒を評価します。
百閒は芥川が自殺する2日前に会っており、彼の死を聞いた百閒は「原因や理由がいろいろあっても、それはそれで、余りに暑いので死んでしまったのだと考え(注・芥川の命日は7月24日)、それでいいのだと思った」と書いています。
猫のノラ
ある日、百閒のもとから飼い猫のノラが消えてしまいました。猫好きの百閒は動揺し、「猫を探す」「迷い猫についてのお願い」「みなさん ノラちゃんという猫をさがしてください」などと題した広告を配布し、必死にノラを探します。
しかし、とうとうノラが戻ってくることはありませんでした。このいきさつは、『ノラや』という作品の題材になっています。百閒は原稿を読み返すのがつらくて校正ができなかったそうです。
内田百閒の代表作
内田百閒の代表作には随筆も多くありますが、今回は小説に絞ってご紹介します。
『冥途』
著者 | 内田百閒(うちだ ひゃっけん) |
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発表年 | 1922年 |
発表形態 | 単行本 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 夢幻 |
『冥途』は、1922年2月に処女短編集『冥途』に収録された内田百閒の短編小説です。土手の下の一膳めし屋を舞台に、生者と死者の交流が描かれています。
『件(くだん)』
著者 | 内田百閒(うちだ ひゃっけん) |
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発表年 | 1921年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 期待される苦痛 |
『件』は、1921年に文芸雑誌『新小説』(1月号)で発表された内田百閒の短編小説です。初出は『新小説』で、「冥途」「山東京傳」「花火」「土手」「豹」とともに、「冥途」という題で発表されました。(※参考)
化け物に姿を変えた語り手が、人々から予言を迫られて困惑する様子が描かれています。
片岡懋「内田百閒「件」を読んで」(『駒澤國文』(25) 1988年2月)
『サラサーテの盤』
著者 | 内田百閒(うちだ ひゃっけん) |
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発表年 | 1948年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 不穏 |
『サラサーテの盤』は、1948年11月に文芸雑誌『新潮』で発表された内田百閒の短編小説です。夫の遺品を回収する妻と、その夫の友人であった語り手の交流が描かれています。1980年には「ツィネルワイゼン」という題で映画化されています。
内田百閒の名言
イヤダカラ、イヤダ
名言というわけではありませんが、この言葉は百閒の性格を象徴する名句です。
「イヤダカラ、イヤダ」は、百閒が国から芸術院(芸術各分野の優れた芸術家を表彰するために設けられた国の機関)の会員へ推薦された際の断り文句です。
御辞退申したい
なぜか 芸術院と云う会に入るのがいやなのです
なぜいやか 気が進まないから
なぜ気がすすまないか いやだから
当時の芸術院院長は、「文部省に推薦する前に辞退を申し出たのは百閒が初めてだ」と語りました。
百間から百閒へ
百間というペンネームは、岡山県を流れる百間川(ひゃっけんがわ)が由来となっています。百閒は、学生時代に百間川の土手に寝転んで勉強をしており、そこからそのペンネームが取られました。
「百間(門の中が日)」が「百閒(門の中が月)」に変わったのは1939年以降ですが、その理由について百閒は語っていません。
ただ、「お日様とお月様とどちらがえらいか、それはお月様にきまっている。お月様が隠れたら、夜は真っ暗になってしまう」という発言はしています。
最後に
今回は、内田百閒のプロフィールと代表作、名言をご紹介しました。
2021年は内田百閒没後50年の節目です。そこで、作家の小川洋子さんが百閒作品の中から好きなものを選んで編んだ、アンソロジーが出版されました。
各話の末尾には小川さんのコメントが入っており、感想を共有しているような感覚になるおすすめの作品です。
内田百閒の作品はまだ著作権が切れていないため、今は青空文庫で読むことはできません。このアンソロジーは、小説と随筆が区別されることなくまんべんなく収録されており、百閒の作風や特徴がよくわかる作品となっています。ぜひ読んでみて下さい!
本記事を書くにあたって参考にした文献は、以下に示した通りです。
『新潮日本文学アルバム 42 内田百閒』(2008年4月四刷 新潮社)
「別冊太陽 内田百閒 イヤダカラ、イヤダの流儀」(2008年9月初版 平凡社)
『文豪どうかしてる逸話集』(2019年10月初版 KADOKAWA)