純文学の文豪図鑑

月が綺麗はウソ?夏目漱石の意外なエピソードや作風の特徴を解説

夏目漱石というと、『吾輩は猫である』のイメージが強いのではないでしょうか。しかしそれだけではなく、実は教員や新聞記者、小説家など様々な方面でマルチに活躍した優秀な人物だったのです。

今回は、夏目漱石の意外なエピソードや、作風の特徴を解説します。

プロフィール

壮絶な幼少期

夏目漱石(本名:夏目金之助)は、1867年に現在の新宿区に生まれました。武士ではないものの、名字帯刀を許された役に就いていた家柄でした。

当時は、子供が多い家は下の子を里子に出すことが一般的でした。親が将来動けなくなった時に、助けてくれる子供が必要だったからです。

8人兄弟の末っ子だった金之助は、2歳のときに浅草の塩原家に養子に出されます。しかし、夏目家と塩原家とのいさかいが原因で、金之助は実家と養父家の間を行ったり来たりする不安定な幼少時代を過ごしました。

武家屋敷町の名残のある実家と、下町の町人の中心地にある養父家を往復したことは、『坊っちゃん』の主人公の人物像形成に影響を与えたと言われています。

優秀な学生時代

そして漢学塾の二松学舍を卒業した後、23歳の時に東京帝国大学(現在の東大)英文学科に入学します。

才能を認められた優秀な漱石は、教授から『方丈記』の英訳を依頼されたりと、秀才ぶりを発揮します。その後26歳で大学を卒業します。

学校の先生に

東京の師範学校で教員を務めた後、愛媛県の松山中学に赴任します。『坊っちゃん』はこの時の経験が背景となっています。

当時、大学は片手で数えられるほどしかなかったので、大学を出たエリートの地位は非常に高いです。男子の中学の進学率が5.5%だっとという数字を見ても、大学に行く人がいかに少ないかという事が分かります。

そのため、この頃の金之助の給料は校長よりも高かったと言われています。松山中学の次は、熊本県の第五高等学校に赴任します。この時の経験をもとに『草枕』を執筆します。

ロンドン留学

金之助は、33歳の時に文部省の留学生としてロンドンに向かいます。当時の留学は国を代表して西洋の仕組みを学びに行くものなので、今の留学とは比べ物にならないほど重い任務でした。

しかし、ロンドンの雰囲気になじめずに研究に没頭した結果、精神を病んでしまい、3年弱で帰国します。(金之助はこれを「神経衰弱」と呼んでいます)

朝日新聞の記者に

帰国後は大学の先生をしながら『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』を次々と発表し、すべての仕事を辞めて朝日新聞に小説を連載する記者として働き始めます。

金之助は、朝日新聞社から給料として月200円を受け取り、ボーナスも入れて年収3,000円ほど稼いでいました。

当時の中流家庭は、月に25円~30円で生活していました。大学を出た知識人でさえ月50円~60円ほどで生活していたので、金之助がいかに稼いでいたかが分かります。それほど、朝日新聞は他の新聞社に金之助を取られたくなかったのでしょう。

 

入社後は『虞美人草』を連載し、前期三部作と呼ばれる『三四郎』『それから』『門』を執筆します。持病の胃潰瘍で苦しんだ後も、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こころ』を連載するなど、精力的に活動します。

そして『明暗』を書きかけのまま、49歳で亡くなりました。

エピソード

本当の父親は?

金之助は幼少期、養父に「お前の父親は誰だ?」と尋ねられた時、「(養父のことを指して)お父さんです」と答えました。

すると、養父は「では、本当の父親は誰だ?」と聞いたそうです。なんと意地悪な養父でしょうか。幼き日の金之助は、実家と養父家を行き来して孤独と戦いながら、こんな仕打ちまで受けていたのです。

この頃のことは自伝的な作品の『道草』に描かれているので、興味がある人は読んでみて下さい。

大学生からの批判

留学から帰国後、金之助は 小泉八雲(こいずみやくも)の後任として、東京帝国大学英文科の講師となります。しかし、真面目で実直な金之助の分析的な硬い講義は、学生に不評でした。

そして、八雲に戻ってきてほしい学生によって「八雲留任運動」が起こります。その結果、金之助は神経衰弱を再発させてしまいました。

 

確かに、彼が留学中に書いた研究ノートは、言い回しや言葉の使い方が非常に難解で、かなり難しいです。こんな感じで授業をされたら、理解できないかもしれないと思いました。

金之助は二松学舍で漢文を学んだので、文全体が漢文調になっているのも読みにくい原因かもしれません。いずれにしても、一生懸命授業をしているのに、「前の先生の方がよかった」と言われるのはやはり辛いのだと思います。

芥川龍之介を絶賛

漱石は、新人作家の発掘に貢献した人物です。特に、無名の学生作家だった芥川の『鼻』を称賛したのは、文学史的にも意義のある功績でしょう。

漱石のお墨付きをもらった芥川は見る見るうちに新人作家として成長し、弱冠25歳にして自身初の小説集を出しました。この華々しいデビューは、文壇にとって事件だった言われています。

月が綺麗ですね

「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したというのは、非常に有名なエピソードです。

しかしこれには典拠がなく、そのエピソードを記した文献も割と新しいものしかないので、信ぴょう性が疑われている逸話です。

ちなみに、OKの時の返事は「死んでもいいわ」です。明治初期に文学の礎を築いた二葉亭四迷が、ロシア語の文献をこのように訳したことから来ています。文学オタクにぴったりの会話ですね。

作風の特徴

漱石は、文学史的に見ると余裕派と呼ばれる流派に属しています。余裕のあるゆったりとした気分で、自由に物事を眺めようとする作風が特徴です。余裕派のキーワードは、「低徊趣味(ていかいしゅみ)」と「非人情」です。

「低徊趣味」は、漱石の造語です。「低徊」とは行ったり戻ったりする様子のことで、世俗的な気持ちを離れて、余裕を持って物事に触れようとする趣向のことだと、漱石は述べています。

「非人情」とは、余裕のある第三者目線で、当事者から一歩離れたところから小説を書くことを指しています。第三者だからこそ、渦中にいる人物の感情に流されないという点で、非人情なのです。

 

また漱石は、それまでの自分の実人生を赤裸々に描いて小説上で懺悔(ざんげ。罪を告白すること)する自然主義と対立しています。

そのため、初期の作品は『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』のように、あっけらかんとした明るい作品が多いです。

最後に

金之助は本当に真面目で苦労の多い人だと思います。孤独な幼少時代を過ごした後、大学卒業という偉業を成し遂げますが、ロンドンで精神を病んでしまいました。

朝日新聞に入社してから、破格の給料を受け取るようにはなりましたが、実家からも養父家からもお金を要求されて、年収3,000円から想像できるような裕福な生活はしていなかったようです。

定職について家庭を築き、総じて成功者の人生だったと捉えられますが、それは彼の努力の無しにはありえなかった人生です。

金之助は放蕩(ほうとう。遊ぶこと)に夢中になるわけでもなく、娼婦も買わず愛人も作らなかったという点で、個人的に好感を持てます。単に不器用だっただけかもしれませんが。

 

作家のことや、作品ができた経緯を知ると、作品に親近感を持つことができます。これを読んで漱石に興味を持った人は、ぜひ彼の作品に触れてみて下さい。

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yuka
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本が大好きな女子大生です。 図書館にこもって貪るように絵本を読んだ幼稚園児時代、学校の図書室の本を全制覇することを目標にした小学生時代を過ごし、立派な本の虫になりました。
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