主人公の10年間の東京での暮らしを、風景とともに振り返る『東京八景』。
今回は、太宰治『東京八景』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『東京八景』の作品概要
著者 | 太宰治(だざい おさむ) |
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発表年 | 1941年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 荒れた青春時代との決別 |
『東京八景』は、1941年1月に文芸雑誌『文学界』で発表された太宰治の短編小説です。Kindle版は無料¥0で読むことができます。
又吉直樹さんのエッセイ集『東京百景』は、太宰治『東京八景』のタイトルをもじったものです。『劇場』の元となるエピソードを含む100篇のエッセイが収録されています。
著者:太宰治について
- 無頼(ぶらい)派の作家
- 青森の大地主の家に生まれた
- マルキシズムの運動に参加するも挫折
- 自殺を3度失敗
太宰治は、坂口安吾(さかぐち あんご)、伊藤整(いとう せい)と同じ「無頼派」に属する作家です。前期・中期・後期で作風が異なり、特に中期の自由で明るい雰囲気は、前期・後期とは一線を画しています。
青森の地主の家に生まれましたが、農民から搾取した金で生活をすることに罪悪感を覚えます。そして、大学生の時にマルキシズムの運動に参加するも挫折し、最初の自殺を図りました。この自殺を入れて、太宰は人生で3回自殺を失敗しています。
そして、『グッド・バイ』を書きかけたまま、1948年に愛人と入水自殺をして亡くなりました。
『東京八景』のあらすじ
登場人物紹介
私
物書き。裕福な家庭の子であることにコンプレックスを抱き、不幸な生活を送る。
H
「私」の故郷で芸妓をしていた女。「私」と懇意になり東京で一緒に暮らしている。
『東京八景』の内容
この先、太宰治『東京八景』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
10年間の東京生活
プロローグ
昭和5年に東京で生活を始めた「私」は、Hという女と一緒に住んでいました。田舎の長兄から金銭的な援助を受けつつ、月末には必ず質屋へ品を持ちこまなければならない生活を送っていました。
ところが6年目にHと別れた「私」は、2年後にある先輩のお世話で見合い結婚をしました。
そして32歳になった「私」は、伊豆の南の山村にある宿で、いつかゆっくり骨折って書いてみたいと思っていた10年間の東京生活を、その時々の風景とともに書くことにしました。
荒んだ青春時代
昭和5年、弘前の高等学校を卒業した「私」は戸塚にある下宿を借りて住み、東京帝大の仏蘭西文科に入学します。Hと同棲しながら学校へ通わず非合法共産主義運動に関わるようになると、長兄が上京しHを連れて帰り、一時的に実家に預けることになりました。
故郷に帰ったHからの便りはなく、「私」は自分に好意があった銀座のバーの女と身を投げますが、女は死んで「私」は生き残っていました。
23歳になった「私」は、再び東京でHとの同棲を始めます。非合法共産主義運動や俳句に凝っていた時代です。
五反田、同朋町、和泉町、柏木と転居を繰り返し、24歳ので八丁堀に引っ越した「私」は、Hの不貞行為を知り激怒します。その後Hと芝区・白金三光町に移った「私」は、『思い出』という作品を遺書としてつづりました。
25歳の3月に大学を卒業しなければなりませんでしたが、学校に出ていない「私」は卒業できません。「私」は長兄に泣きついては裏切り、遺書として『晩年』を書き上げます。
昭和10年、鎌倉に赴いた「私」は首を吊りましたが、息を吹き返しました。それから数日後激しい腹痛が「私」を襲い、盲腸炎の手術を行います。その後医者の勧めで転地保養のため千葉県船橋町に移り住みましたが、「私」は麻痺剤の中毒に苦しみました。
29歳になり、借金を抱えて酒ばかり呑んで過ごし、この後どうして良いかわからない状態の「私」でしたが、追い打ちをかけるようにHとある洋画家との不貞行為が発覚しました。
やりきれなくなった2人は水上温泉で心中を図りますが失敗し、ついに別れることになりました。
訪れた平穏
30歳になって転機訪れ、「私」は生きなければならぬと思いました。その頃、長兄が代議士に当選し、その直後選挙違反で起訴され、さらに家族が相次いで亡くなったのです。
「私」は裕福な家の生まれで不当に恵まれていることをコンプレックスに感じていましたが、故郷の家はいまは不幸せの底にあるため、もはや私には恵まれているばかりに人に恐縮する理由がなくなりました。
30歳の初夏から本気で作家生活を開始し、今度は遺書としてではなく生きていくために書きました。『姥捨』が売れると甲州行き、昭和14年の正月に先輩の世話で見合い結婚をしました。
決意
その年の初秋、「私」は甲府から三鷹町に移住します。
そして武蔵野の夕陽が見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」と言った時に、ふと東京八景を思いつきました。
戸塚の梅雨。本郷の黄昏。神田の祭礼。柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。天沼の蜩(ひぐらし)。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。
八景に収まらず、大先輩と歩いた新橋駅前の橋の上から見た銀座の橋の風景と、妻の妹の婚約者T君の出征を見送った芝公園を付け加えました。
それから数日後、「私」は伊豆へ旅立ってからもう10日経ちますが、まだあの温泉宿にいるようです。
『東京八景』の解説
『東京八景』の背景
以下は『東京八景』の冒頭の引用です。
東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。(中略)私は、ことし三十二歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しい哉それを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、誰にも媚こびずに書きたかった。(傍線筆者)
小林氏(参考)は、20代を中心とした過去の風景と現在に近い二景が対照的であることを指摘しています。
心中未遂や非合法活動、薬物中毒、自殺未遂、脳病院、二度目の心中未遂を経て、結婚という明るい二景を発見し、『東京八景』を構想して作家としての再生するまでが描かれました。
そして、なぜ1941年1月において、この再生の物語を書く必要があったかという問いを立て、論を展開しています。
これには国民生活の規範が関わります。国民生活の規範は1949年新体制発足によって具体化されました。そしてこれは、強い圧力として作家に迫ります。
文化人である作家は、私生活でも健康で純粋で豊かであることが求められ、軌道を外れた生活は許されなかったのです。
しかし『東京八景』において「私」が訣別を宣言した心中未遂や非合法活動、薬物中毒などの「青春」は、新体制で規範とする生活と正反対の退廃的な生活でした。
この状況で太宰が一人の作家として生きるためには、青春時代の虚無的な生活と今の自分をきっぱり切り分けることと、健康的で規範的な生活を送っていることを宣言する必要があっりました。
そのため、『東京八景』は青春との訣別、「私」の再生の物語として語られる必要があったとしています。
小林 雄佑「太宰治『東京八景』論 -〈規範〉と〈逸脱〉太宰治の創作方法-」(「近代文学研究と資料 第二次 5」2011年3月 早稲田大学大学院教育学研究科千葉」)
『東京八景』の感想
「私」と太宰の切り分け
主人公「私」と作者・太宰治の共通項が多く、「私」=太宰治として読んで良いのか迷いました。「私」と太宰治の距離があまりにも近いため、『東京八景』はこれまで太宰治の生活資料としての価値に重きが置かれてきたそうです(参考)。
しかし杉江氏は「作中の語り手「私」は、必ずしも太宰治その人というわけではない」としており、近年では『東京八景』を一つの物語として再評価する試みがなされていることを挙げました。
『東京八景』には、読者が「私」を「太宰」だと解釈するための仕掛けがあちこちに施され、私小説風に見せかけられています。
ところが実際には多くの虚構が挿入されているため(※)、『東京八景』は私小説ではないとしたうえで論を展開しています。
※花悶俊典「『東京八景』太宰治私注・稿」1989年12月「文学論戦」に詳しい
杉江 泰樹「『百景』から『八景』へ語りなおされる〈東京〉 -太宰治『東京八景』試論-」(「近代文学研究と資料 第二次」2016年3月 早稲田大学大学院教育学研究科」)
最後に
今回は、太宰治『東京八景』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!
↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。