犬嫌いが大真面目に、ユーモラスに語られる『畜犬談』。
今回は、太宰治『畜犬談』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『畜犬談』の作品概要
著者 | 太宰治(だざい おさむ) |
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発表年 | 1939年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 犬嫌い |
『畜犬談』は、1939年10月に文芸雑誌『文学者』で発表された太宰治の短編小説です。犬への偏見やイメージから極端に犬を嫌う主人公が、さまざまな策を講じて犬を遠ざけようとするも空回りしてしまう様子が、面白おかしく描かれています。
Kindle版は無料¥0で読むことができます。
著者:太宰治について
- 無頼(ぶらい)派の作家
- 青森の大地主の家に生まれた
- マルキシズムの運動に参加するも挫折
- 自殺を3度失敗
太宰治は、坂口安吾(さかぐち あんご)、伊藤整(いとう せい)と同じ「無頼派」に属する作家です。前期・中期・後期で作風が異なり、特に中期の自由で明るい雰囲気は、前期・後期とは一線を画しています。
青森の地主の家に生まれましたが、農民から搾取した金で生活をすることに罪悪感を覚えます。そして、大学生の時にマルキシズムの運動に参加するも挫折し、最初の自殺を図りました。この自殺を入れて、太宰は人生で3回自殺を失敗しています。
そして、『グッド・バイ』を書きかけたまま、1948年に愛人と入水自殺をして亡くなりました。
『畜犬談』のあらすじ
登場人物紹介
私
いつの日か犬に食いつかれるであろうという確信を持ち、犬を嫌悪している。
ポチ
練兵場から「私」の後をつけ、家に住み着いた真っ黒な子犬。
家内
ポチに対してもともと無関心であったが、ポチが皮膚病を発症すると露骨に嫌悪する。
『畜犬談』の内容
この先、太宰治『畜犬談』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
嫌よ嫌よも好きのうち
私の犬嫌い
「私」は犬の凶暴性を信じ、いつか犬に噛まれると思っています。実際に、私の友人は道で突然犬に噛みつかれて全治三週間の怪我を負い、さらに恐水病の防毒のため注射代という安くはない出費を強いられるのでした。
日頃から犬への嫌悪を募らせていた私は、友人のその話を聞いて犬への憎悪を一層増させます。
皮肉な結果
甲府の町外れに草庵を借りるようになった私は、その犬の多さに辟易します。私はいかにして噛まれないようにするか真剣に考え、一つの答えに辿り着きます。
それは、犬に警戒心を抱かせないように微笑を浮かべたり、童謡を歌ったりすることでした。さらに床屋に行って長い髪を短くしたり、武器と間違えられかねないステッキを持つのをやめたり、ひたすら犬に媚びるようになりました。
その結果、皮肉なことに私は犬に好かれてしまうのでした。そして私は、人間に従順な犬に自分を重ね、さらに犬を嫌いになるのでした。
卑劣なポチ
早春、練兵場へ散歩に出かけた私の後を真っ黒な子犬がついてきました。結局家までついてきて、やがて私の家に住み着くようになります。仕方なくその犬をポチなどと呼んでエサをやったりするうちに、ポチは大きく成長しました。
私は、すれ違う犬にかたっぱしから喧嘩を挑むポチに悩まされます。
「喧嘩しては、いけないよ。喧嘩するなら、僕からはるか離れたところで、してもらいたい。僕は、おまえを好いてはいないんだ」とポチに言い含めると、ポチは私の顔色を伺って野蛮な犬がいかにも嫌なものだというような態度を取るようになります。
そんなポチの仕草を見た私は、ますます嫌悪を感じるのでした。
ポチの運命
7月に三鷹に引っ越すことが決まり、それを絶好の機会と考えた私はポチを置いていくことにしました。
ところが引っ越すまでの間に異変が起こります。ポチが皮膚病にかかってしまったのです。病のせいでポチは悪臭を放ち、我慢の限界を迎えた私はポチを殺すことにしました。
私と家内はそれぞれ牛肉と薬を買いに走り、翌朝私はポチと練兵場に向かいます。その途中、大きな赤毛の犬がポチに吠え掛かりました。
ポチはそれを横目に通り過ぎましたが、赤毛の犬は卑怯なことに後ろからポチを狙います。私は「赤毛は卑怯だ!思う存分やれ!」と喧嘩を許可し、ポチは健闘の結果赤毛の犬に勝利しました。
練兵場に着くと、私は毒のついた牛肉を与え、ポチがぺちゃぺちゃと食べている間に帰りました。しばらく歩いて振り向くと、ポチが首を垂れてついてきていました。毒は効かなかったのです。
私は家に帰り、「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには、罪がなかったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ」と妻に言います。
そしてポチを東京へ連れていく意思があることを伝え、ポチに卵をやるよう言います。妻は浮かない顔をして「ええ」と返事をしました。
『畜犬談』の解説
同族嫌悪
主人公は、自身の犬嫌いについて「犬に対する先天的な憎悪と恐怖」と語っていますが、大嫌いな犬と自分が似ていると感じていることもその一端を担っていると私は考えます。
具体的に、主人公は自身の本心を偽って人間の顔色を伺って機嫌を取る卑しさが犬と似ているとしています。
ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿諛追従てんとして恥じず、ぶたれても、きゃんといい尻尾まいて閉口してみせて、家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とはよくもいった。(中略)てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互いに敵視して、顔つきあわせると吠えあい、噛みあい、もって人間の御機嫌をとり結ぼうと努めている。(中略)思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ、いやだ。たまらないのである。
そしてすれ違う犬にケンカをふっかけていたポチは、そういう野蛮な争いを嫌う主人公の機嫌を取るため、徐々にそうした主人公の姿勢に合わせるようになりました。
ポチは、卑屈なほど柔弱な態度をとりはじめた。私といっしょに路を歩いて、他の犬がポチに吠えかけると、ポチは、
「ああ、いやだ、いやだ。野蛮ですねえ」
と言わんばかり、ひたすら私の気に入られようと上品ぶって、ぶるっと胴震いさせたり、相手の犬を、しかたのないやつだね、とさもさも憐れむように流し目で見て、そうして、私の顔色を伺い、へっへっへっと卑しい追従笑いするかのごとく、その様子のいやらしいったらなかった。
下記は、犬に噛みつかれることを恐れるあまり主人公が起こした行動です。
私はまず犬の心理を研究した。(中略)そうして、はなはだ拙劣な、無能きわまる一法を案出した。あわれな窮余の一策である。私は、とにかく、犬に出逢うと、満面に微笑を湛たえて、いささかも害心のないことを示すことにした。夜は、その微笑が見えないかもしれないから、無邪気に童謡を口ずさみ、やさしい人間であることを知らせようと努めた。(中略)犬の傍を通る時は、どんなに恐ろしくても、絶対に走ってはならぬ。にこにこ卑しい追従笑いを浮べて、無心そうに首を振り、ゆっくり、ゆっくり、内心、背中に毛虫が十匹這はっているような窒息せんばかりの悪寒にやられながらも、ゆっくりゆっくり通るのである。
なんと主人公は、「自分は怖くない人間ですよ」と犬に示すため、犬に対して微笑みかけたり鼻歌を歌ったりするようになったのです。
最終的には、犬に「ウロンの者」と警戒されて吠えられることがないように大嫌いな床屋へ行き、犬に反抗心を興させぬようステッキを「永遠に廃棄」する始末です。ここには、馬鹿馬鹿しくも犬の機嫌を取る主人公が示されており、本人もそのあわれさを自認しています。
こうした卑しさに対する嫌悪は、『人間失格』にも描かれています。人間の思考を理解できないがないがゆえに人から嫌われることを極端に恐れる主人公・葉蔵(ようぞう)は、家族や使用人、友人、先生、全ての人間から好かれるために道化に走ります。
夏にセーターを着てみたり、でたらめな曲で踊ってみたりひょうきんな行動をして人を笑わせますが、それは人に媚びる行為であり、葉蔵はそんな自分に嫌気が指しているのです。
人間失格は私小説(作家自身の経験をありのまま描いた小説)であり、畜犬談も私小説の要素があると考えます。
作家の実人生と物語の人物を安易に結びつけるべきではないと思いますが、『畜犬談』は実際に太宰が甲府で野犬に悩まされた経験をもとに書かれた小説であり、主人公と作家の太宰が多少被っている部分があるからです。
太宰治自身、犬と自分が人間に媚びるという点で共通しているという認識があり、同族嫌悪を抱いていたのだと思いました。だからこそ、自身と重ねた『畜犬談』の主人公も度が過ぎるほど犬を嫌っているのだと考えます。
『畜犬談』の感想
笑いを誘う
いつなんどき、怒り狂い、その本性を暴露するか、わかったものではない。犬はかならず鎖に固くしばりつけておくべきである。
飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは愚かな気のいい迷信にすぎない。あの恐ろしい牙のある以上、かならず噛む。けっして噛まないということは、科学的に証明できるはずはないのである。
こちらが何もせぬのに、突然わんといって噛みつくとはなんという無礼、狂暴の仕草であろう。いかに畜生といえども許しがたい。畜生ふびんのゆえをもって、人はこれを甘やかしているからいけないのだ。容赦なく酷刑に処すべきである。
「犬はかならず鎖に固くしばりつけておくべきである」「科学的に証明できるはずはないのである」「容赦なく酷刑に処すべきである」……
普段犬に対して使わない言葉を使い、犬への偏見をいかにも正しいことのように自信を持って大げさに、大真面目にに語る様子が何とも笑いを誘います。
また、下記論文で芦田氏は「ポチの生命が保証されていること」が『畜犬談』の語りを滑稽たらしめているとしています。
主人公はポチを殺したいと思っていますが、そう思っているだけで行動には表れていません。これが、本当に主人公がポチを殺していたら笑いは生まれないということです。
確かに、主人公がポチ殺害を決意して実際に毒を盛るまでの描写は、その他のシーンと比べてシリアスで笑いがありません。語りだけではなく、こうした構造も本文に影響を与えているのだと思いました。
芦田 祐季「太宰治『畜犬談』論 : 再生する〈笑い〉」(「百舌鳥国文」2010年3月)
『畜犬談』の朗読音声
『畜犬談』の朗読音声はYouTubeで聴くことができます。
最後に
今回は、太宰治『畜犬談』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
青空文庫にあるので、ぜひ読んでみて下さい!
↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。