『山月記』は、高校の教科書で取り上げられることが多い作品です。漢文をベースに地の文が書かれていて、高校生にはあまりなじみがないので、難しいと感じた人が多いと思います。
今回は、中島敦『山月記』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『山月記』の作品概要
著者 | 中島敦(なかじま あつし) |
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発表年 | 1942年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 自己解析 |
『山月記』は、1942年に文芸雑誌『文学界』(2月号)で発表された中島敦の短編小説です。虎になってしまった男が、自身の身に起こったことを友人に語って、自分と向き合う物語です。Kindle版は無料¥0で読むことができます。
著者:中島敦について
- 教師を経て小説家になる
- 冷静な自己解析が特徴
- 『李徴』で知名度を上げた
- 33歳で病死
中島敦は、東大を卒業後に教師をしながら小説を書き、そのあと専業作家になりました。懐疑的で、自己と向き合う作風が特徴です。遺作となった『李徴』が高く評価され、それが中島敦の評価に繋がりました。1942年に持病のぜんそくで亡くなりました。
『山月記』のあらすじ
唐代の中国で、李徴は科挙(かきょ。役人になるための難関試験)に合格し、晴れて役人になりました。ところがプライドの高い李徴は、周囲となじめずに役人を辞めてしまいます。
その後、李徴は詩人として生きることを決意しますが、なかなかうまくいきません。
結局詩人をやめて下級役人として再出発した李徴は、出世したかつての知り合いの下で働くことに耐えきれず、発狂して走り出します。そして、李徴はいつの間にか虎になってしまいました。
登場人物紹介
李徴(りちょう)
才能があるが、非常にプライドが高い人物。
袁傪(えんさん)
李徴と同じ年に役人になった人物で、李徴の親友。温和な性格。
『山月記』の内容
この先、中島敦『山月記』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
プライドの高さが邪魔をする
プライドの高い李徴
唐代の中国に、李徴という男がいました。李徴は、若くして科挙に合格するほどの優秀な人物でした。しかし身分の低い役人として働くことに耐えられず、役人を辞めて詩人として成功しようとします。
ところが、李徴は詩人として名声を上げることができず、生活が苦しくなってきたため再び地方の役人として働くことにしました。
知り合いが出世していることや、以前の後輩の命令に従うことに、李徴の自尊心は傷つけられます。そして李徴は、出張した際に発狂して、そのまま山へ消えて行方知れずになってしまいました。そしてある日を境に、李徴は虎に姿を変えてしまいます。
人間でなくなる恐怖
それからしばらく経って、李徴は人食い虎として恐れられるようになりました。そんな時、李徴はかつて友人の袁傪を襲いかけてしまい、「あぶないところだった」と呟きます。
その声を聴いた袁傪は、声の主が李徴であることに気が付き、「その声は、我が友、李徴子ではないか?」と声を掛けます。
李徴は袁傪に対して、虎になってしまった経緯やその苦しみを語りました。李徴は、徐々に人間の心に戻る時間が減っていき、理性を無くした獰猛(どうもう)な獣でいる時間が長くなったのだと言います。
「いっそのこと完全に獣になってしまえば、そもそも思い悩むこともなくなるので楽になるのでは」とも考えますが、李徴の中にほんの少し残っている人間的な部分は、それを非常に恐ろしく感じます。
人間ではなくなったが、完全な虎にもなり切れていない李徴に、袁傪は同情します。李徴は自分が人間であった証拠として袁傪に自作の詩を託しました。
李徴の覚悟
そして別れ際、李徴は袁傪に「ここから離れた丘に着いたとき、振り返って自分の醜い姿を見てほしい」と告げました。
李徴は、虎になって我を見失ったときに、袁傪をおそってしまうことをひどく恐れていました。そのようなことが起こらないようにするために、袁傪に自分の姿を見せて同じ道を通る気を失せさせようと考えたのです。
袁傪が約束通りふり返ると、草むらから躍り出てきた虎が数回吠えて、再び消えていきました。
『山月記』の解説
李徴が虎になった理由
虎になってしまった理由として、李徴は「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を挙げています。これらは、それぞれどのようなことを指すのでしょうか?
「自尊心」とは、プライドのことです。優秀であるがゆえに自信家の李徴は、自尊心の塊と言えます。臆病と言うのは、「傷つくことを恐れている」ということを指しています。
李徴は、詩の上手い人に弟子入りして、他の弟子と競い合うことを避けていました。比較されたりダメだしされたりして、自分が傷つくことを恐れたのです。そして李徴は徐々に人との交流を避けるようになり、最終的に孤立してしまいました。
「尊大な羞恥心」は、李徴が人を避ける原因にもなっています。李徴は人と接するときに恥ずかしさを感じるので、偉そうな態度を武器に人から逃げていたのでした。
他人との交流を避け続けた結果、李徴は非常に自己中心的な人物になってしまいます。このような部分に、獣らしさが出ています。
教科書から消えかけた『山月記』
高校2年生の定番教材である『山月記』ですが、20年ほど前に教科書から無くなりそうになったことがあります。極端に自己を追い込む物語であるため、現場から「暗い」「面白くない」「教えにくい」という声が届いたためです。
しかし、現在は「『山月記』は自己と向かい合う習慣を養う」と再評価されています。
『山月記』の感想
狭間(はざま)の苦しみ
世の中の物語には、「どこにも所属しないものの苦しみ」という型があるように感じます。例えば太宰治『斜陽』には、貴族にも俗人にもなれず、居場所がなくて孤独を感じる人物が描かれています。
またジブリ映画「もののけ姫」には、「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ」というセリフがあります。ここでは、山犬に育てられた人間の子・サンの不憫(ふびん)さが語られています。
『山月記』にも同じことが言えると思いました。李徴には、中途半端に人間的な部分が残っています。ところが徐々に虎でいることの方が増えて、遂にはなぜ今まで人間だったのかと自問するほどになってしまいました。
しかし完全な獣に成り下がることは、プライドの高い李徴にとって耐えられない苦しみです。だからこそ、人間の心を持っているしるしとして、詩を作るという人間的な行為を、虎になっても続けているのです。
作者の意図
李徴は、臆病な自尊心と尊大な羞恥心に支配されて、結果的に理性の制御が利かなくなる生き物になってしまいました。このことから、人間である以上、一番無くしてはいけないのが感情をコントロールする理性だということを再認識しました。
また、李徴は「人間は誰もが猛獣使いである」と語っています。日常生活で獣にならないように、自分の中の猛獣を抑えることを強く意識しなければならないと思いました。
『山月記』の漢詩
『山月記』の漢詩の書き下し文や現代語訳は、以下のリンクから確認できます。
『山月記』の朗読音声
『山月記』の朗読音声は、YouTubeで聴くことができます。
最後に
今回は、中島敦『山月記』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
再読してみると新しい発見があったりするので、ぜひ読んでみて下さい!
↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。