世界25カ国で翻訳され、読みつがれているベストセラー『キッチン』。泉鏡花賞を受賞した本作は、作者の吉本ばななが大学を卒業した年に書いたものです。
今回は、吉本ばなな『キッチン』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『キッチン』の作品概要
著者 | 吉本ばなな(よしもと ばなな) |
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発表年 | 1987年 |
発表形態 | 文庫 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 身近な人の死からの再生 |
『キッチン』は、1987年に文芸雑誌『海燕(かいえん)』(11月号)で発表された吉本ばななの短編小説です。吉本ばななが商業誌デビューした作品で、吉本ばななは『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しました。
祖母を無くして天涯孤独となった主人公が、知人の家での奇妙な生活を通して死を乗り越える様子が描かれています。1988年には、『キッチン』の続編となる『満月』が発表されました。
『キッチン』は、1989年と1997年に映画化されています。1997年の方は「我愛厨房/Aggie et Louie」というタイトルで、日本・香港合同で制作されました。
著者:吉本ばななについて
- 日本大学 芸術学部 文芸学科卒業
- 『キッチン』で商業誌デビューを果たす
- 「死」をテーマとしている
- 父は批評家・詩人の吉本隆明(よしもと たかあき)
吉本ばななは、日本大学 芸術学部 文芸学科を卒業しており、卒業制作の『ムーンライト・シャドウ』で日大芸術学部長賞を受賞しました。『キッチン』が『海燕(かいえん)』という雑誌に掲載され、吉本ばななは商業誌デビューを果たしました。
吉本ばななが在学中、ゼミを担当していた曾根博義さんは「吉本ばななの小説は、あらゆる点でこれまでの小説の文章の常識を超えている」と評価しています。
作中では「死」が描かれることが多いですが、単に孤独や絶望を描くのではなく、人物がそれを乗り越えようとするエネルギーを持っているところが特徴です。父は批評家で詩人の吉本隆明で、姉は漫画家のハルノ宵子です。
『キッチン』のあらすじ
幼い頃に両親を亡くしたみかげは、祖父母と暮らしていました。しかし祖父もみかげが中学生の時に他界してしまったため、みかげは大学生になるまで祖母と生活をしていました。
しかし先日、最後の肉親だった祖母もついに帰らぬ人となってしまいます。みかげはそれを上手く消化できず、ぼんやりと日々を過ごしていました。
そんなとき、みかげは祖母が通っていた花屋で働く雄一という青年に声をかけられ、雄一の家で暮らすことになります。
みかげを受け入れる雄一や、突然やって来たみかげをわが子のようにかわいがる雄一の親との暖かい交流を通し、みかげは祖母の死を徐々に乗り越えていくのでした。
冒頭文紹介
『キッチン』は、以下の一文からはじまります。
私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
タイトルの謎を一瞬で説く一文です。「いつか死ぬ時が来たら、台所で息絶えたい」という発言からも、台所がいかにみかげにとって特別な場所であるかが分かります。
登場人物紹介
桜井みかげ(さくらい みかげ)
女子大生。祖母の死をきっかけに雄一の家に居候(いそうろう)することになる。
田辺雄一(たなべ ゆういち)
みかげと同じ大学に通う大学生。実の母親をすでに亡くしている。みかげの祖母が通っていた花屋でアルバイトをしている。
田辺えり子
雄一の母親で、元父親。妻をがんで亡くした後、女性になってゲイバーを経営するようになった。
『キッチン』の内容
この先、吉本ばなな『キッチン』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
遺された人の心の再生
みなしごのみかげ
みかげは、毎日台所で寝ていました。一緒に暮らしてきた祖母が亡くなり、みかげには身寄りがなくなってしまったからです。不安でどこにいても寝苦しく、冷蔵庫のわきが一番眠りやすいことに気づいたのです。
みかげは葬式が済んでも祖母の死をいまいち理解できず、新しい家を探すでもなくぼんやりと過ごしていました。
そんなときに救世主が現れます。それは、1つ年下の田辺雄一という青年でした。雄一は突然みかげを訪ねてきて、「今晩、家に来てください」と言いました。
雄一は、みかげの祖母行きつけの花屋でアルバイトをしています。祖母は雄一を孫のように可愛がっていたため、雄一は祖母の葬式の手伝いをしてくれていたのです。天涯孤独(てんがいこどく)のみかげは、雄一の家を訪ねることにしました。
雄一とえり子
雄一の家に着いたみかげは、台所をチェックします。使い込まれた台所用品、品のいい食器、整理された冷蔵庫。みかげはそれらを見て、「この台所を愛せる」と思いました。
そのとき、美女が家に飛び込んできました。普段使いしないような服や濃い化粧を見て、みかげは夜の仕事の人だと推測します。
彼女は「雄一の母です。えり子と申します」と挨拶をしました。えり子は、みかげがもともとこの家の住人だったかのように、ごく自然にみかげを受け入れました。
それから雄一は、「えり子は自分の父親だ」とみかげに告げました。雄一の母親が亡くなったときに、えり子は仕事を辞めて女性になることを決意したのだと言います。
みかげの涙
みかげは大学を休んで、雄一の家で食事を作ったり眠ったりして過ごしていました。それと並行して、みかげは祖母と住んだ家を正式に引き払う日を迎えます。最後に管理人に挨拶をして、みかげはバスに乗って雄一の家に帰りました。
バスの中で、みかげはだだをこねる小さな女の子と優しげなおばあさんの会話を耳にします。そして突然、「自分は2度とそのような経験ができない」ということを痛烈に感じました。
気がつくと、みかげは涙をこぼしていました。悲しいわけではないのに、自分の意志とは関係なく涙はとめどなく流れていきます。みかげはバスを降りて、声を上げて泣きました。
夢のキッチン
みかげは、「いつかは雄一の家を出なければいけない」と頭のどこかで考えています。しかし、みかげはそれを悲観するわけではなく、事実としてとらえています。そしてみかげは、この先の人生で「夢のキッチン」をいくつも持つだろう、と思うのでした。
『キッチン』の解説
みかげにとってキッチンとは
みかげは、「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う」と語っていますが、みかげはキッチンのどんなところに惹かれているのでしょうか。以下では、その疑問を解くためにみかげがキッチンに抱くイメージについて考えます。
生死
キッチンと言って、真っ先に思い浮かぶワードは「食」でしょう。そして、食は命を維持するのに不可欠なものです。つまり、キッチンは「生」と密接に結びついている場所なのです。
一方で、みかげにとってキッチンは死を連想させるところでもあります。みかげは「いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい」と語っています。
よく考えれば、調理される肉や魚はキッチンという場所で殺されるか、キッチンに到着した時点で息絶えています。命をつなぐために、他の命を摂取する準備をする場所。それがキッチンなのです。
安息
みかげは、祖母が亡くなったあと「冷蔵庫のわきがいちばんよく眠れること」に気づき、キッチンで寝るようになりました。
なぜかというと、「冷蔵庫のぶーんという音が、私を孤独な思考から守った」からです。冷蔵庫がときおり出す「ぶーん」という音と振動が、みかげを安心させたのでした。
以上のことから、キッチンはみかげにとって「生・死・安息」をもたらす場所です。このように、良いものも悪いものもすべて内包するキッチンを、みかげは愛していたのではないでしょうか。
雄一とえり子の好意の正体
「本当に好きなだけここにいてね。あなたがいい子だって信じてるから」
これは、えり子がみかげに対して言った言葉です。雄一とえり子は、赤の他人のみかげを至極当然のように家に迎えました。これはもちろん彼らの親切心によるものですが、理由がそれだけとは到底思えません。
みかげが小学生ならまだしも、彼女はすでに大学生です。実際にみかげはアルバイトをしているので、1人で生きていく力が全くないというわけではありません。
それに、ある程度成長した他人を自宅に引き入れることは、少なからず負担にもなるし多少の抵抗もあると思います。
なぜ、雄一とえり子はそこまでみかげに手を差し伸べようとするのか。雄一とえり子があまりにも自然にみかげを受け入れたので、そこが疑問に感じました。以下では、2人がみかげをサポートする理由について考えます。
雄一の場合
雄一がみかげを気づかう理由には、「みかげの祖母にお世話になったから」という分かりやすいものがあります。しかし、これがみかげを世話する直接の理由だとは言えないでしょう。
また、えり子は「昔飼っていた犬とみかげが似てるから、雄一はみかげを気にかけている」とも言っています。確かに、これは雄一がみかげに興味を持つきっかけにはなっています。しかし、みかげを居候させる理由とするには弱いです。
核心をついているのは、以下の引用部だと思います。
いつか必ず、だれもが時の闇の中へちりぢりになって消えていってしまう。そのことを体にしみこませた目をして歩いている。私に雄一が反応したのは当然なのかもしれない。
両親と祖父をすでに亡くしているみかげには、死の気配がただよっています。祖母の生前、祖母の先が短いことを悟っていたみかげは、死の静けさを感じながら生きていました。
同時に、母を亡くしている雄一にも同じような気配があります。雄一は、身近な人の死を経験した人が持つ独特の空気をみかげに感じ取り、みかげに反応したのです。そしてこれが、雄一がみかげに手を差し伸べる直接的な理由なのではないかと思います。
えり子の場合
「さっきのえり子さんはね、この写真の母の家に小さい頃、何かの事情で引き取られて、ずっといっしょに育ったそうだ(中略)お母さんにものすごく執着してねえ、恩を捨ててかけおちしたんだってさ」
これは、みかげが初めて田辺家を訪れたとき、雄一がえり子の身の上を説明している場面です。
子供時代のえり子は、雄一の母(のちのえり子の妻)の家に「何かの事情で引き取られ」たのだと言います。これが示しているのは、「えり子には家族がいない」ということです。
加えて、その後えり子は雄一の母と駆け落ちしてしまいました。よって、育ての家とは絶縁したことが推測できます。えり子は、生家(生まれた家のこと)にも育ての家にも帰れなくなってしまったのです。
ここで、えり子はみかげと同じく「天涯孤独」になりました。だからこそ、「もう、だれも好きになりそうにないから」とえり子は性別を越境したわけですが、えり子はみかげの境遇に同情したから、彼女を引き取ったのではないかと思います。
『キッチン』の感想
引っこしハガキ
帰る場所があるということは、多くの人にとって当たり前です。だからこそ、それが自分に当てはまらないと分かると、とたんに不安になってしまいます。自分が収まる場所がないと、自分の存在が肯定されていないような気さえしてきます。
祖母と住んだ家を出なくてはならなくなったみかげも、そんな状態だったのではないかと思います。そんな不安定なみかげの心は、雄一とえり子に「家を与えられる」という形で救われました。
特に印象的だったのは、引っこしハガキを書くシーンです。ワープロを買ってきた雄一は、「何か、打ってほしいものある?」とみかげにたずねたあとに「引っこしハガキを作ってあげようではないか」と言いました。
引っこしハガキを書くということは、「そこに引っこしました」という旨を知らせることです。
つまり、雄一がそれを作ることを提案するということは、みかげが田辺家の一員になったこと・みかげがしばらく田辺家に居すわることを雄一が認めていると解釈できます。
さらに、「(引っこしハガキを出して)迷惑なことないの?」と心配するみかげに対して、雄一は不思議そうに「何が?」と答えます。
雄一は、恩着せがましいわけでなく、はたまたみかげに変に気を回す風でもなく、ごく自然な気持ちから当たり前のように引っこしハガキを作ったのでした。その純粋なやさしさに、私は心を打たれました。
こうした見返りを求めない純度の高い親切心が、みかげの心を落ち着かせたのだと思います。
みかげの涙
祖母と住んだ家を引き払った日、バスに乗ったみかげはおばあさんと孫のやりとりを聞いて涙を流しました。
みかげは「祖母が死んでからあんまりちゃんと泣いてなかった」と語っていたため、このシーンはみかげが祖母の死を消化した場面だと思いました。
これまでにも、他人の死の悲しみを克服する物語をいくつか読みました。それらに共通するのは、克服の瞬間は唐突にやって来るということです。
たとえば、瀬尾まい子さんの『卵の緒』に収録されている『7’s blood』には、母の死を実感できない女子高生の生活が描かれています。
彼女は、自分でも不思議なくらいケロっとしていたのですが、なんでもないときに堰(せき)を切ったように号泣していました。亡くなった人が身近な人であればあるほど、その死を受け入れるのを先延ばしにしてしまうのだと思いました。
私はまだ身近な人の死を経験したことがないので、その悲しさは小説上でしか知りえません。いつかそれを経験したとき、また『キッチン』に戻ってこようと思いました。
キッチンで寝る
みかげがキッチンで寝ているということを知ったとき、乙一の短編集『ZOO 1』に収録されている「カザリとヨーコ」を思い出して、いやなものがこみ上げる感じがしました。
カザリとヨーコは一卵性の双子ですが、ヨーコは母親から精神的・肉体的な虐待を受けています。そして、自分の部屋を与えられていないヨーコが寝起きしているのが台所なのです。
小学生のころに「カザリとヨーコ」読んで軽いトラウマになったので、その感覚を思い出して一瞬ひるみました。
このように考えてみると、「台所」と「キッチン」では聞いたときの印象がずいぶん異なるなと思います。「台所」だとなんとなく暗くて粗野な感じで、「キッチン」だと明るくて洗練された雰囲気があるような気がします。
作中にも何度か「台所」という言葉が出てきますが、「キッチン」の方が圧倒的に多いです。この小説のタイトルが、『台所』ではなく『キッチン』で良かったと思いました。
『キッチン』の論文検索
『キッチン』の論文は、以下のリンクから確認できます。表示されている論文の情報を開いた後、「機関リポジトリ」「DOI」「J-STAGE」と書かれているボタンをクリックすると論文にアクセスできます。
『キッチン』の試し読み
『キッチン』は、以下のサイトから試し読みできます。
最後に
今回は、吉本ばなな『キッチン』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
傷を負った心が、ゆるやかに回復していく様子が丁寧に描かれている作品です。ぜひ読んでみて下さい!