「このごろずいぶんよく消える」という、なんとも不思議な一文で始まる『消える』。
今回は、川上弘美『消える』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『消える』の作品概要
著者 | 川上弘美(かわかみ ひろみ) |
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発表年 | 1996年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 中編小説 |
テーマ | 家族 |
『消える』は、1996年に雑誌『野性時代』(3月号)で発表された川上弘美の中編小説です。ある団地に住む2組の家族の婚姻をめぐって、家族の在り方が問われる作品です。
著者:川上弘美について
- 1958年東京生まれ
- お茶の水女子大学理学部生物学科卒業
- 『蛇を踏む』で芥川賞受賞
- 紫綬褒章受章
川上弘美は、1958年生まれ東京都出身の小説家です。お茶の水女子大学理学部生物学科を卒業後、高校の教員を経て小説家となりました。
1996年に『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞し、その後も中年女性と初老の男性の恋を描いた『センセイの鞄』がベストセラーとなり、数々の文学賞を獲得しました。2019年には、その功績がたたえられて紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章しました。
『消える』のあらすじ
「私」の家では、人や物が消えます。今回は、結婚を控えた上の兄が消えました。婚約者のヒロ子さんにはその事実が伝えられないまま、上の兄が不在の状態で縁談は進みます。
「私」は消えた上の兄の気配を感じながら、上の兄の代わりにヒロ子さんの相手をする次の兄と、ヒロ子さんのやり取りを複雑な感情で見つめるのでした。
登場人物紹介
私
団地に両親と2人の兄と住んでいる。家族の中で、消えた上の兄のことを唯一見ることができる。
上の兄
「私」の家の長男。ヒロ子さんとの婚約が決まった後、消えた。
ヒロ子さん
上の兄の婚約者。ヒカリ団地の最上階に住んでいる。
次の兄
「私」の家の次男。消えた上の兄の代わりに、ヒロ子さんの相手をすることになった。
笹島のテンさん
団地の人々の仲人をする老人。
『消える』の内容
この先、川上弘美『消える』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
家族の在り方
上の兄が消えた
私の家では、上の兄が2週間前に消えました。上の兄の婚約者は、隣の団地の最上階に住むヒロ子さんという女性です。
笹島のテンさんという仲人に指定された日に、ヒロ子さんは昆布とするめと釣り書きを持って私の家にやってきて、あれこれと儀式を行った後にヒロ子さんは嫁入りすることになったのでした。
上の兄が消えたことをヒロ子さんには伝えていなかったため、代わりに次の兄がヒロ子さんと連絡を取るようになります。
ヒロ子さんが正式に私の家にやってきた日、私はヒロ子さんと次の兄が2人でいる部屋に聞き耳を立てます。2人の愛のささやきを聞きながら、私は淋しくなるのでした。
淋しい
その後テンさんから電話があり、上の兄とヒロ子さんの婚約が解消されました。代わりに、次の兄とヒロ子さんの婚約が成立しました。
次の兄とヒロ子さんの結婚式が行われた夜、上の兄が出ました。上の兄はヒロ子さんの胸にまたがって接吻をしています。上の兄の姿は私にしか見えないため、ヒロ子さんは正体不明の息苦しさに苦しみます。
私が「やめたら」と言うと、上の兄は「だってヒロ子さんは俺と結婚するはずだったんだから」と言いました。
縮む
ヒロ子さんと結婚してからというもの、次の兄はヒロ子さんに愛をささやくことはなくなりました。ヒロ子さんは「鶴が鳴いています」とよく言うようになり、そのたびにヒロ子さんは縮んでしまいます。
そしてとうとう手のひらに乗る大きさにまで縮んでしまいました。ヒロ子さんはもとの家族に返され、じきに次の兄も消えてしまいました。
その後
それから、上の兄や次の兄、ヒロ子さんに関する記憶があいまいになり、私はテンさんに仲人をしてもらって縁談を進めています。
私は、この家族から抜けて婚約者の家族に入っていけば、ヒロ子さんと同じように変わった様子になってしまうのだろうか、と思うのでした。
『消える』の解説
家族のつながりの強さ
『消える』には2組の家族が登場します。「私」が属する「消える家族」と、ヒロ子さんが属する「縮む家族」です。
この作品を読んでいて、家族のつながりがやたら強かったり、血筋を大切にするのが気になりました。
たとえば、「私」の語りには当たり前のように「曾祖母」という単語が出てきます。「私」が曾祖母の代ことまで詳しく知っている点で、家族というものをいかに身近に感じているかが読み取れます。
また、ゴシキという名の壺は「曾祖母よりももっと前の血筋から伝わった壺」とされています。ここでは「脈々と受け継がれてきた」というニュアンスが強調されており、血筋を重視しているという感覚があると推測できます。
そのほかにも、家族という共同体の強固さが見受けられるところがあったため、以下でご紹介します。
①狭い世界
「私」がいる『消える』の世界では、団地同士での婚姻が当たり前に行われます。実際、ヒロ子さんは「私」が住む団地の隣にある、ヒカリ団地の最上階に住んでいます。
そして団地の人は皆、笹島のテンさんという老婆に仲人となってもらい、婚約しているのでした。
通例化した団地同士の結婚や、テンさんという1人の人物を介した婚姻という世間の狭さが、家族のつながりが強い要因になっているのではないかと思いました。
これを端的に表しているのが、次男がヒロ子さんに言った「俺の愛は団地でいちばん大きな家の面積よりも広い」というセリフです。
愛の大きさは、私たちの感覚では大海原(おおうなばら)などにたとえるのが一般的です。しかし、その次男の言葉を聞いた誰もが、愛の大きさを団地最大の家の面積で表現することに疑問を抱いていないのです。
このことから、彼らにとって最も大きいもの(彼らの世界)は団地だということがわかります。つまり、彼らは団地を世界のすべてだと思っている人々、と言うことができるのです。
②儀式
儀式が多く執り行われているのも、この物語の特徴です。
たとえば見合いの儀のとき、「私」の家族とヒロ子さんの家族は不思議なやりとりをします。
まず、「私」の家族は昆布とするめと釣り書きをヒロ子さん一家に手渡す。ヒロ子さん一家それらを受け取り、昆布を棚に飾り、するめを冷凍し、釣り書きを額に入れて仏壇の横に掲げる。
「私」の一家は般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱え、それを受けたヒロ子さん一家は5分間沈黙する。この動作が見合いの儀で、これらは寸分たがわず厳粛(げんしゅく)に行われるのでした。
はたから見ると何でもないような一連の動作が、彼らにとっては非常に大切な意味のあるものとして扱われています。これは、宗教をほうふつとさせるシーンです。
イスラム教を例に挙げます。イスラム教の信者は、1日に5回礼拝を行います。はたから見ると、彼らは立ったり正座をしたりを繰り返しているように見えます。しかし信者にとっては、それは重要な意味を持つ礼拝なのです。
それと同じことが、見合いの儀にも言えると思います。昆布とするめと釣り書きの授受を行い、般若心経を唱えたり沈黙することが、彼らにとって重要な儀式です。
そして、こうした身内でしか行わない儀式を共有することは、その集団の一体感を増させることにつながります。
③変わった家族ルール
「私」の家では、代々家長がゴシキを磨くと決められています。また、3月3日に色のついた花を摘んできて飾ることや、9月の夜に電気を消して月をながめるという決まりがあります。
一方でヒロ子さん一家には、春の休日に芹(せり)やよもぎを摘み、その香りに酔って千鳥足で回り続けるという決まりがあります。
これらも前項の「②儀式」と同じく、宗教を思い起こすルールです。
宗教は、年齢や性別がバラバラな人間たちを一つにまとめる力を持っています。なぜそれが可能なのかと言うと、「週末に教会に行く」「元旦に初詣に行く」「1日5回礼拝をする」などの定期的なイベントが開催されるからです。
これと同じことが、『消える』に登場する家族では実践されています。3月3日に色のついた花を摘んできて飾ることは、「私」に家族の一員であることを自覚させます。それによって家族はまとまりを保っているのです。
そして、こうした身内だけに通用するルールは外部の人には共有されません。したがってこのようなルールは、それを共有する人々の結束力を高めるのです。
『消える』の感想
去るものに厳しい
前項では、『消える』に登場する家族という共同体のつながりの強さに触れました。しかし、共同体のつながりが強ければ強いほど、そこから一歩出たら中に戻ることはできません。身内で固まる意識が強ければ強いほど、排他的(はいたてき)になるのです。
たとえば、ある新興宗教の決まりには、一旦その宗教から出た人はそのコミュニティにいる人と今後いっさい関われなくなるというものがあります。信者以外の人を排除することで、その宗教の信者のつながりをより強固なものにしているのです。
こうしたあっけなさは、『消える』でも描かれています。「私」の家では、消えた長男の寝床はいつの間にか取り外され、家族は父・母・次男・私の4人になりました。消えた長男の存在は、無かったものとみなされたのです。
これを表しているのが、消えた長男の言葉です。家族の中で1番兄の気配に敏感な私は、ときどき消えた長男の姿を見ます。
あるとき、「消えても家族なんだから」と言う私に対して、長男は「消えたらもう家族じゃなくなる」と答えました。これは、家族というコミュニティの強固なつながりのを保つために、長男が犠牲になったことを示唆しているのではないかと思いました。
代替可能、はかかない愛
「離れていても心はつながっている」という言葉が嘘だということを、この小説は証明しています。
当初、ヒロ子さんは長男と電話で愛をささやき合っていました。しかし、ヒロ子さんとの結婚を間近に控えた長男は、ある日突然消えてしまいます。
それからは、仕方なく次男がヒロ子さんの相手をするようになりました。次男は長男の声を真似て話しているため、ヒロ子さんは次男が話していることに気づきません。
ヒロ子さんは、愛する人の声を判別することができなかったのです。それまでの愛の言葉が、どれだけ空虚なものであったかを象徴する出来事だと思います。いない人のことは忘れてしまうのです。
そうしているうちに、次男とヒロ子さんは中を深めます。そしてヒロ子さんは、長男の代わりに次男と結婚することになったのでした。
しかし、幸せな結婚生活は長くは続きません。あれだけヒロ子さんに熱いメッセージを送っていた次男は、結婚後そっけなくなってしまいます。愛がいかに薄いものであるかが分かる出来事です。
『消える』では、ヒロ子さんとの結婚を通して長男と次男が交換可能であることが示されていました。他の作品にも、代替できるという点で共通したものがあるのでご紹介します。
1つ目は、今村夏子『あひる』です。この作品には、「のりたま」と名付けられたあひるが登場します。のりたまは体調を崩してよく病院へ行きますが、そこからは羽やくちばしの見た目が微妙に違う「のりたま」が帰ってくるのです。
2つ目は、乙一の短編集『ZOO1』に収録されている「カザリとヨーコ」です。この作品には、双子の娘たちが入れ替わったことに気が付かない母親が描かれています。
いずれも、その人自身のパーソナリティが無視されているため、交換が可能となっています。のりたまではなくただの「あひる」、カザリとヨーコという女の子ではなく「人間」というようにカテゴライズされているのです。
そうした冷たさや残酷さが、『消える』から伝わってきました。
最後に
今回は、川上弘美『消える』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!