「書けない小説家」を主人公に据えた『懶惰の歌留多』。
今回は、太宰治『懶惰の歌留多』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『懶惰の歌留多』の作品概要
著者 | 太宰治(だざい おさむ) |
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発表年 | 1939年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 「書く」ということ |
『懶惰の歌留多』は、1939年4月に文芸雑誌『文藝』で発表された太宰治の短編小説です。怠け者の小説家が、書けないなりに作品を書いていく過程が描かれています。
Kindle版は無料¥0で読むことができます。
著者:太宰治について
- 無頼(ぶらい)派の作家
- 青森の大地主の家に生まれた
- マルキシズムの運動に参加するも挫折
- 自殺を3度失敗
太宰治は、坂口安吾(さかぐち あんご)、伊藤整(いとう せい)と同じ「無頼派」に属する作家です。前期・中期・後期で作風が異なり、特に中期の自由で明るい雰囲気は、前期・後期とは一線を画しています。
青森の地主の家に生まれましたが、農民から搾取した金で生活をすることに罪悪感を覚えます。そして、大学生の時にマルキシズムの運動に参加するも挫折し、最初の自殺を図りました。この自殺を入れて、太宰は人生で3回自殺を失敗しています。
そして、『グッド・バイ』を書きかけたまま、1948年に愛人と入水自殺をして亡くなりました。
『懶惰の歌留多』のあらすじ
「私」は小説家ですが、怠け者のため小説を書き進めることができません。書こうと思って机に向かっても、あれこれと関係のないことが頭に浮かんでどうしても書けないのです。
そして「私」はそんな自分に嫌気がさし、やけになって「懶惰の歌留多」と題して文字をつづっていくのでした。
登場人物紹介
私
小説家。怠惰が理由で小説をなかなか書くことができない。
『懶惰の歌留多』の内容
この先、太宰治『懶惰の歌留多』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
「書けない」を真面目に語る
生みの苦しみ
私の欠点は怠惰であることです。骨を抜くのが面倒という理由で魚を好まず、食べるのに苦労しない豆腐や玉子焼き、牛乳を摂るのです。その怠惰ゆえ、小説家であるにもかかわらず作品を書き進められずにいます。
書こうとしても、余計なことが次々と頭に浮かび、全く集中できません。あまりの怠惰に呆れた私は、「い、生くることにも心せき、感ずることも急がるる」「ろ、牢屋は暗い」という具合に書き進めるのでした。
『懶惰の歌留多』の解説
作品の成立
『懶惰の歌留多』は、未定稿『背徳の歌留多』から改稿されたものです。
『回想の太宰治』にあるように、①昭和12年末に雑誌への掲載のために『背徳の歌留多』を執筆→②文藝春秋編集部に送られたものの不採用→③『背徳の歌留多』を『懶惰の歌留多』に改稿→④昭和14年「文藝」に掲載された経緯があるとされています。
安藤 宏「転換期の太宰治 : 未定稿「背徳の歌留多」から『懶惰の歌留多』へ」(「東京大学国文学論集1」2006年5月)
芸術と実生活
安藤氏は、『懶惰の歌留多』における「怠惰」とは、単に怠け者であることではなく、読者に提示すべき自らの物語を見失った「小説家」であるとしています。
その背景には芸術と実生活の距離をどのように設定するか、という議論があります。創作者である小説家は、実生活も俗っぽくならず芸術的であるのが理想であり、作品の言葉を借りるのであれば、「私」がねぎを買いに行くのは好ましくないのです。
なぜならねぎを買いに行くという行為は極めて生活と結びついたもので、まったく芸術的ではないからです。
すると、私小説において描く人と描かれる人の距離が離れてしまうことになります。逆に、描く人が芸術的な生活を送っていれば、描かれる人と描く人の距離は縮まります。
描く人が、描かれる人が俗人的な生活を送っていることを露呈した場合、描く人もそのような生活を送っていることになってしまうのです。
描く人(太宰本人)と描かれる人(高邁であるべき太宰)には乖離があり、「描く自己」とは何かという問いにおちいってしまいます。それが「読者に提示すべき自らの物語を見失った」状態です。
その後、太宰は太宰自身の荒れた生活を作品に落とし込むことになります。こうした退廃的な生活は、小説家としての自分を作中でリアルに演出するための操作であると、安藤氏は述べています。
安藤 宏「転換期の太宰治 : 未定稿「背徳の歌留多」から『懶惰の歌留多』へ」(「東京大学国文学論集1」2006年5月)
『懶惰の歌留多』の感想
庶民的な魅力
太宰治の小説の魅力は、目線の低さとくだらないことを大真面目に考えることで生じるおかしみであると改めて感じました。
先の解説とつながりますが、文学と言うと、高尚なもの・敷居の高いものという印象があります。しかし太宰の作品には、そうした近寄りづらさがありません。例えば、下記の引用文では「私」の注意力が散漫する様子が描かれています。
あわてて、がらっと机の引き出しをあけ、くしゃくしゃ引き出しの中を掻きまわして、おもむろに、一箇の耳かきを取り出し、大げさに顔をしかめ、耳の掃除をはじめる。その竹の耳かきの一端には、ふさふさした兎の白い毛が附いていて、男は、その毛で自分の耳の中をくすぐり、目を細める。耳の掃除が終る。なんということもない。それから、また、机の引き出しを、くしゃくしゃかきまわす。感冒除けの黒いマスクを見つけた。そいつを、素早く、さっと顔にかけて、屹っと眉毛を挙げ、眼をぎょろっと光らせて、左右を見まわす。なんということもない。マスクをはずして、引き出しに収め、ぴたと引き出しをしめる。また、頬杖。
小説家という創作者であっても、テスト前に普段しない掃除し始める私たちと何ら変わらないんだな、と思わせてくれます。
他にも、机に向かっているのに、飛行機の中で煙草は吸えるのだろうかとか、とうもろこしに食らいつく様子は下品であるとか、とりとめのないことをあれこれ考えてしまう「私」。
こうした身近さが、他の作家にはない太宰のユニークな点だと思います。
最後に
今回は、太宰治『懶惰の歌留多』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!
↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。