母・娘、妻・夫、姑・婿…3人の関係が卍模様に絡み合う『疑惑』。
今回は、川上弘美『疑惑』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
『疑惑』の作品概要
著者 | 川上弘美(かわかみ ひろみ) |
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発表年 | 2005年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 疑惑に隠れる真実 |
『疑惑』は、2005年に文芸雑誌『本』(1月号・3月号・5月号)で発表された川上弘美の短編小説です。3人の人物がそれぞれ主人公となってお互いのことを語り、それゆえにそれぞれの疑惑が生まれていきます。
著者:川上弘美について
- 1958年東京生まれ
- お茶の水女子大学理学部生物学科卒業
- 『蛇を踏む』で芥川賞受賞
- 紫綬褒章受章
川上弘美は、1958年生まれ東京都出身の小説家です。お茶の水女子大学理学部生物学科を卒業後、高校の教員を経て小説家となりました。
1996年に『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞し、その後も中年女性と初老の男性の恋を描いた『センセイの鞄』がベストセラーとなり、数々の文学賞を獲得しました。2019年には、その功績がたたえられて紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章しました。
『疑惑』のあらすじ
登場人物紹介
敦子(あつこ)
職場結婚した夏也と同じ会社の総務で働いている。夏也の浮気を疑っている。
夏也(なつや)
敦子の夫。敦子と同じ会社の営業。
初枝(はつえ)
敦子の母親。温厚な性格。
『疑惑』の内容
この先、川上弘美『疑惑』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
嘘か真か、真か嘘か
敦子/初枝
ある日、敦子に母の初枝から電話がかかってきました。それは、敦子の夫の夏也が浮気をしているのではないか、という内容でした。実は夏也の浮気を疑っていた敦子は、たまっていた夏也への不満を放出させ、母に愚痴を言います。
その日の夜、敦子は珍しく早く帰って来た夏也を出迎えます。そして夏也の携帯が落ちているのを見つけた敦子は、何となしに携帯のメールを開きます。すると、業務連絡に交じって「よかったらお電話ください 初枝」というメールを目にしてしまうのでした。
初枝/夏也
あるとき不審なメールを受信した初枝は、不安になって夏也に相談することにしました。夏也は喫茶店で親切に初枝の相談に乗ります。
一通り話してそろそろ店を出ようとなったとき、初枝は「夏也さんのところには、迷惑メールって来ることはあるのかしら」と問いました。夏也は「ええ、時々」と言って携帯を初枝に渡します。
携帯を返そうとしたときに初枝は誤ってボタンを押してしまい、「日曜一時、いつもの場所で。マリ♡」というメールが表示されました。
夏也の浮気を疑った初枝は「敦子ったら、かわいそう?」と思いますが、同時にぬるいような気持になるのでした。
夏也/敦子
夏也は仕事中、先日義母の初枝と会ったときのことを思い出します。機械音痴の初枝にあれこれ教えたのち、請われるままに携帯を差し出し、出会い系で知り合って関係を持ったマリからのメールをうっかり見られてしまったのです。
その日、家に帰ると敦子は珍しく上機嫌でした。そこで、初枝が敦子にマリのことを言っていないのだと夏也は思います。
ほっとしたのも束の間、その日の夜夏也が一瞬寝入って目をさますと、敦子が斜め上から夏也の顔を覗き込んでいます。そして敦子は「ねえ、夏也、お母さんと二人で、何してるの」と静かに問います。
緊張した夏也はなんとか「たいしたことじゃないよ」と言ったものの、敦子のただならぬ様子にいつか義母と『何か』をしたのだったという気がしてしまいます。
夏也は、「わたし、絶対に許さないからね」とほほえんだ敦子から目を離せなくなってしまうのでした。
『疑惑』の解説
複数の疑惑
『疑惑』における真実は、夏也とマリの関係です。ところが、読者と登場人物を比較したとき、それぞれが持っている情報が異なるため、各々が違った疑惑を抱いています。下記に各人が持っている情報と疑惑をまとめました。
持っている情報 | 疑惑 | |
読者 | ・夏也と初枝がお互いを良く思ってる(敦子は気づいてない) ・夏也と初枝が敦子を良く思っていない ・夏也はマリと関係を持ってる | 夏也と初枝の関係 →夏也の語りで解消される |
敦子 | ・夏也と初枝が関係を持っている? | 夏也と初枝の関係 |
初枝 | ・夏也がマリと関係を持ってる? ・夏也と敦子の夫婦関係は上手くいっていない(敦子の愚痴より) | 夏也とマリの関係 |
夏也 | ・マリとは関係を持っている ・初枝とは関係を持っていない(持っているように思ってしまう) | – |
読者と敦子は同じ疑惑を抱いていますが、読者は夏也が初枝との関係を「ありえない」と語ったことを知っているため、その疑問を解消しています。ところが、敦子は夏也のその語りを知る由もないため、夏也と初枝の関係を疑ったままなのです。
読者の疑惑
読者が夏也と初枝の関係を疑ってしまうのは、①夏也・初枝の敦子へのマイナスのイメージと、②夏也と初枝のお互いへのプラスのイメージがあるからです。
①夏也・初枝の敦子へのマイナスのイメージ
初枝は、娘である敦子にマイナスの感情を抱いています。これは、例え初枝が夏也を寝取ることになったとき、罪悪感を感じにくいことを示唆しています。
夏也さんは敦子とは全然ちがう人。おおらかで、でも世間知はちゃんとあって。(中略)もち二人が離婚することになったら、私は夏也さんの肩をもってしまいそうな気がする。
敦子は、あろうことか、夏也さんの浮気を疑っていたのよ。あいかわらず、自分の事情で人を推し量る子だわ、と私は思った。
さらに夏也は、義母・初枝と気の強い敦子を比較し「敦子にも義母のこういう可愛いところがもう少しあればいいのに」と語っています。
また、下記の引用部はマリからの夏也へのメールを見てしまったあとの初枝の心情です。
敦子ったら、かわいそう?(中略)わかっているのだけれど、動悸はとまらない。ふしぎな気持ち。いやな気持ちと、恐れる気持ちと、祈る気持ちと、そしてそれ以外に、薄く色をもった、ぬるいような気持ち。
「薄く色をもった、ぬるいような気持ち」とは、自分でもいけるのでは?という淡い期待と考えられます。
このあとの「敦子のことを思って心が騒いでいるのか、夏也さんのことを思っての心騒ぎなのか、わからない」という初枝の語りから分かる通り、夏也の不義について敦子のことを思って100%憤っているわけではないことが読み取れます。
②夏也と初枝のお互いへのプラスのイメージ
女としての色気という点でみれば、義母のほうがずっと勝るとおれは内心思っている。(中略)義母の声も、おれは好きだ。
上記引用から、夏也は義母の初枝を人としてというよりは1人の女として見ていることが分かります。
敦子はしあわせ者ね。夏也さんは、もうしぶんのない人。社会人としても、男としても。
また初枝自身は夫に先立たれた身であり、上記のように語っています。
初枝が抱く夏也への気持ちと、夏也が抱く初枝へのイメージを知っている読者は、初枝と夏也と初枝の関係を疑ってしまいますが、それは夏也の語りで否定されます。ところが夏也のその語りを知らない敦子は、夏也と初枝の関係を疑ったままなのです。
しかし、敦子にとっては夏也の相手が初枝だろうとマリだろうとどちらでも同じなのかもしれません。
母娘仲はあまり良くなく、また「よその女とでも、お母さんとでも、だれとでも、わたし、絶対に許さないからね」という発言から、敦子にとって、初江はよその女と並列する存在であると読むことができるからです。
『疑惑』の感想
敦子の攻撃
下記のように、夏也は敦子のことを軽蔑するきらいがあります。
「勘」にかんしても、敦子は義母より数段劣っていそうな気がするけれど、安心はできない。
しかし物語の最後、夏也はちょっと見下していた敦子から予想外の攻撃に驚きます。下記は、敦子が夏也と初枝の浮気を問い詰めているシーンです。
ねえ夏也。許さないからね。よその女とでも、お母さんとでも、だれとでも、わたし、絶対に許さないからね。敦子がささやく。からからに乾いた口で、おれは、はい、と答える。面の表情をしたまま、うっすらと敦子がほほえむ。ほほえんだ敦子の口の端から血がしたたっているようにみえる。おれは敦子から目が離せずに、凝然と横たわっている。
「ささやく」「ほほえむ」という優しげな単語とは裏腹に、敦子が発する言葉は非常に強く、そのギャップに恐怖を覚えます。
それは夏也も同じで、彼には妙に余裕がありません。初枝にマリとの浮気がばれそうになったときの落ち着きは見る影もなく、「からからに乾いた口」という描写からはひどく緊張していることが伝わります。
また、敦子は「面の表情」をしているにもかかわらず、「うっすらと」ほほえんでいます。口は笑っているのに目が笑っていない状態で、想像するとぞっとします。
極めつけは、「ほほえんだ敦子の口の端から血がしたたっているようにみえる」という描写です。凝然と横たわる夏也は、さながら敦子に捕食された獲物のようです。
夏也の「敦子はどちらかといえば気の強いタイプ」、初枝の「激しい子。」という敦子評によって、敦子には「強い」というイメージが付与されています。それが前面に出ているのが敦子が夏也をじわりじわりと締め上げるラストのシーンです。
ここでは、夏也が上・敦子が下というそれまでの状態から急に立場の逆転が起こっています。こうした鮮やかな転覆は谷崎潤一郎『刺青』や『痴人の愛』を思い起こし、妙にわくわくした気持ちになりました。
最後に
今回は、川上弘美『疑惑』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!