純文学の書評

【谷崎潤一郎】『麒麟』のあらすじと内容解説・感想

漢籍に取材した作品で、孔子の遍歴が題材となっている『麒麟』。

今回は、谷崎潤一郎『麒麟』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!

『麒麟』の作品概要

著者谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)
発表年1910年
発表形態雑誌掲載
ジャンル短編小説
テーマ道徳 VS 欲望

『麒麟』は、1910年12月に雑誌『新思潮』で発表された谷崎潤一郎の短編小説です。孔子の衛国来訪のエピソードをベースに、衛国の君主が国家再建と妃の誘惑との間で揺れる様子が描かれています。

まだ青空文庫にはありませんが、多数の短編集に収録されています。

著者:谷崎潤一郎について

  • 耽美派作家
  • 奥さんを友人に譲るという事件を引き起こす
  • 大の美食家
  • 生涯で40回の引っ越しをした引っ越し魔

反道徳的なことでも、美のためなら表現するという「唯美主義」の立場を取る耽美派の作家です。社会から外れた作品を書いたので、「悪魔」と評されたこともありました。

しかし、漢文や古文、関西弁を操ったり、技巧的な形式の作品を執筆したりして、今では日本を代表する作家として評価されています。

死んでも踏まれ続けたい。谷崎潤一郎の略歴・作風をご紹介80年の生涯で40回も引っ越しをしたり、奥さんを友達に譲ったり、度が過ぎる美食家だったりと、やることが規格外の谷崎潤一郎。 今回は...

『麒麟』のあらすじ

祖国・魯の国から発った孔子一行は、衛の国にたどり着きます。孔子は、衛の君主と妃の横暴な政治によって荒れ果てた国を目の当たりにしました。衛の君主と対峙した孔子は、彼に人道的な政を教えます。

その甲斐あって衛の国は豊かになりましたが、それを良く思っていない人物がいるのでした…

登場人物紹介

孔子(こうし)

儒者。魯の国から伝道の途に上り、衛の国に入る。

林類(りんるい)

老子の門弟で、100歳近い老人。

霊公(れいこう)

衛の国の君主。南子には頭が上がらない。

南子(なんし)

霊公の妃。絶世の美女。

『麒麟』の内容

この先、谷崎潤一郎『麒麟』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。

一言で言うと

孔子の挫折

魯国を発つ

孔子とその弟子たちは、故郷の魯国を離れて遍歴を始めます。旅を続けて野に出た一行は、老子の門弟である林類と出会いました。

孔子の弟子が「どうして死を楽しむことができるのか」と問うと、林類は「死と生は、一度往って一度反るのじゃ。此処で死ぬのは彼処で生れるのじゃ」と答えます。それを聞いた孔子は、「まだ道を得て、至り盛さぬ者と見える」と評しました。

国家再建

衛国に入った孔子一行は、暴政によって荒れた恐ろしい町を目にします。孔子と面会した衛国君主・霊公は、天下に王となる道を孔子に尋ねます。孔子の誡めに従った霊公は、それまで言いなりになっていた妃の南子と距離を置きます。

その結果国は豊かになり、国の美しい景色を見た霊公は感激の涙を流しました。しかし、南子夫人は孔子の登場により霊公への支配力を失いかけていることに激しく怒りの感情を燃やしています。

南子は再び霊公を誘惑し、「妾は総べての男の魂を奪う術を得て居ます。妾はやがて彼の孔丘と云う聖人をも、妾の捕虜にして見せましょう」と言うのでした。

孔子の失意

南子は孔子を誘惑するために、至高の香や酒、珍獣の肉を振る舞いました。ところがこれらの世にも珍しいぜいたくに触れても、孔子の顔の曇りは始終晴れることなく、心も全く動きません。

南子は部屋を仕切っていた帳(とばり)を開けさせ、下にある庭を孔子に見せます。そこでは衛国の厳しい法律を犯した者や、南子の眼の刺激になるために酷刑を受けている者が苦しみもだえていました。

南子はその光景を恍惚とながめながら、「あの罪人達を見たならば、先生も妾の心に逆う事はなさるまい」と言いました。

そして霊公はある夜南子の部屋を訪れます。霊公は、南子が美の極致に至った悪魔と知りながら、南子から離れられません。そんな霊公を見た南子の眼は、悪の誇に輝きました。

 

こうした結果を見た孔子は、「吾、未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ざるなり」
と嘆きながら、衛を去って曹の国を目指すのでした。

『麒麟』の解説

儒教と道教の対立

林類の登場について、陳氏(下記「参考」参照)は史実との違いを指摘しています。史実では、林類と孔子の出会いは南子と会ったですが、『麒麟』では林類と孔子の出会いは南子と会うなのです。

この疑問を考えるために物語の構成を確認すると、物語を4つに分けたとき2章では霊公と南氏の対立が、3章では孔子と南氏の対立が描かれています。主体は異なるものの、いずれも道徳と色香の対立を示しています。

 

そして陳氏は、「色香に対して逆らえない霊公は、人間が自然の欲望の前に、無力な存在であることを象徴している」としています。

道教が教える無為自然と(霊公の性質に象徴される)、孔子が提唱する有為(うい)は対照的です。つまり、『麒麟』の本質は儒教と道教の拮抗であると言えるのです。

冒頭の疑問に戻ると、谷崎が林類のエピソードを孔子と南子の出会いの前に設定したのは、儒教と道教の対立があることを提示しているためと考えられると陳氏は述べています。

陳 竹「『霊台』と『商墟』の間 : 谷崎潤一郎『麒麟』論」(「九州大学大学院比較社会文化学府比較文化研究会」2020年12月)

『麒麟』の感想

豪華の形容

私は、谷崎は豪華絢爛なものと、むごく残虐極まりない状況を描写するのに特に長けた作家と認識しています。『麒麟』は前者の特徴が色濃く出ている作品だと思いました。

下記に引用するのは、衛国の官人が孔子を引き留める際の発言です。

先生の疲労を癒す為めには、西圃の南に水晶のような温泉が沸々と沸騰って居ります。先生の咽喉を湿おす為めには、御苑の園生に、芳しい柚、橙、橘が甘い汁を含んで実って居ります。先生の舌を慰める為めには、苑囿の檻の中に、肥え太った豕、熊、豹、牛、羊が蓐のような腹を抱えて眠って居ります。

言葉だけで表現されているにも関わらず、やわらかい湯が肌に吸い付く感覚や果汁で乾いた喉が潤う感覚にうっとりし、目の前には丸々太った家畜が現れました。あらゆる言葉を使って驕奢(きょうしゃ)なものを表現する力量に感服します。

 

次は、南子が孔子を自らの虜にするために披露した、あらゆるぜいたくの描写です。

七すじの重い煙は、繍の帷を這うて静に上った。或いは黄に、或いは紫に、或いは白き檀香の煙には、南の海の底の、幾百年に亙る奇しき夢がこもって居た。十二種の鬱金香は、春の霞に育まれた芳草の精の、凝ったものであった。大石口の沢中に棲む龍の涎を、練り固めた龍涎香の香り、交州に生るゝ密香樹の根より造った沈香の気は、人の心を、遠く甘い想像の国に誘う力があった。

碧光を放って透き通る碧瑶の杯に盛られた酒は人間の嘗て味わぬ天の歓楽を伝えた甘露の如くであった。紙のように薄い青玉色の自暖の杯に、冷えたる酒を注ぐ時は、少頃にして沸々と熱し、悲しき人の腸をも焼いた。南海の蝦の頭を以て作った蝦魚頭の杯は、怒れる如く紅き数尺の髭を伸ばして、浪の飛沫の玉のように金銀を鏤めて居た。

夫人はまた其の皿の一つ一つを一行にすすめた。その中には玄豹の胎もあった。丹穴の雛もあった。昆山龍の脯、封獣のもあった。其の甘い肉の一片を口に啣む時は人の心に凡べての善と悪とを考える暇はなかった。

上記3つの引用に共通しているのは、形容する対象が持つ性質だけではなく、そこから派生させて広く魅力を伝えていることです。

例えば香の魅力を伝えるのに、それがいかに芳醇で馥郁(ふくいく)たるものかを詳細に説明するのではなく、それがどのように作られたのかを強調しています。さらに最終的に起こること(香が人を「遠く甘い想像の国に誘う」こと)まで広げて説明しています。

また酒であれば、それがいかに舌を喜ばすものであるかを詳細に説明するのではなく、芸術作品としての杯の形容をすることで、相対的にその内容物である酒のすばらしさを伝えています。

 

このように、物を形容するときに、それ自体の素晴らしさだけでなく背景や結果にまで広げるのが谷崎の形容の手法だと思います。

形容の対象をAとしたとき、Aが出来上がる過程に非常に珍しいものが使われていたら、Aの価値はぐっと上がります。Aを手にした結果人間が幸福になるのであれば、人間がいかに幸福を感じたかを形容すれば、Aのすばらしさを伝えることができるのです。

また、この世にはないものが形容の対象であるのもポイントです。実際に触れられないからこそ想像力で補うしかなく、実在しないからこそ現実味が薄れ、余計に対象への理想が膨らみます。

その結果、読者は豪壮な情景を思い浮かべることができるのだと思います。

最後に

今回は、谷崎潤一郎『麒麟』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。

ぜひ読んでみて下さい!

ABOUT ME
yuka
「純文学を身近なものに」がモットーの社会人。谷崎潤一郎と出会ってから食への興味が倍増し、江戸川乱歩と出会ってから推理小説嫌いを克服。将来の夢は本棚に住むこと!
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