80年の生涯で40回も引っ越しをしたり、奥さんを友達に譲ったり、度が過ぎる美食家だったりと、やることが規格外の谷崎潤一郎。
今回は、谷崎潤一郎の略歴と、作風をご紹介します!
谷崎潤一郎の基本データ
本名 | 谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう) |
出身地 | 東京市 日本橋区 蠣殻(かきがら)町 |
生きた時代 | 1886年(明治初期)~1965年 |
代表作 | 『刺青』『卍』『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』 |
流派/同時代作家 | 耽美(たんび)派/澁澤龍彦・江戸川乱歩・夢野久作・三島由紀夫 |
恩師 | 永井荷風(ながい かふう) |
ライバル | 芥川龍之介 |
性格(主観入ってます) | 強引・強欲 |
キーワード(主観入ってます) | 愚、マゾヒズム、悪女、美、母性、西洋、無道徳 |
谷崎潤一郎の略歴
幼少期~青年期
1886年、谷崎は江戸情緒の残る東京の蠣殻町(現・人形町)に生まれました。谷崎の祖父は、一代で資産をなした優秀な商人で、幼い頃は比較的裕福な暮らしをしていました。
ところが、商売下手な谷崎の父が事業で失敗したことをきっかけに、家計は苦しくなります。15歳で小学校を卒業後、学費が用意できなかったため、一時は中学校進学が危ぶまれました。
しかし、周囲の援助のおかげでなんとか進学し、19歳で中学校を卒業します。そして21歳で東大の国文科に入学しますが、授業をさぼりまくっていたことと、授業料を払えなかったことがきっかけで、退学処分になりました。
しかし、在学中に積極的に作品を発表しており、谷崎は永井荷風に才能を認められていました。そのため、退学後も作家として活躍します。
20代
谷崎は、29歳で石川千代子と結婚します。本当は、谷崎は千代子の妹のせい子に惹かれていたのですが、千代子と結婚しました。しかし、せい子への思いを抑えきれず、谷崎はせい子と同棲を始めてしまいます。
谷崎に捨てられた千代子を、谷崎の友人の佐藤春夫が慰めます。やがて2人は恋愛関係に発展し、谷崎は千代子を佐藤に譲る約束をしました。ところが、自由奔放なせい子は他の男性のもとに行ってしまいます。
そのため寂しくなった谷崎は、土壇場で譲る約束を無かったことにしてしまいました。谷崎と佐藤は、これを機に絶交します。この一連の出来事は「小田原事件」と呼ばれ、当時大変な注目を集めました。
30代
そして1923年、谷崎は37歳のときに関東大震災を経験します。母に似て地震が嫌いな谷崎は、ほとぼりが冷めるまで東京を離れようと、関西に移住します。
当初は一時的な移住でしたが、関西を気に入った谷崎は晩年まで関西で過ごし、とうとう東京に戻ることはありませんでした。
40代~晩年
41歳のとき、芥川龍之介と「理想の小説とはどんなものか」について議論を交わします。
芥川が「話らしい話のない小説(起承転結の無い、詩のような小説)」を提唱したのに対し、谷崎は「ストーリーの面白い小説」を提唱しました。議論は、谷崎が若干優位な状態で終わりました。
44歳で、谷崎は千代子と離婚します。そして、そのころには和解していた佐藤に千代子を結婚させました。これは、「細君(さいくん。奥さんの事)譲渡事件」として、話題になりました。
翌年にはまた別の女性と結婚しますが、3年後に離婚します。その翌年、49歳で長年思いを寄せていた根津松子と結婚しました。
戦時中も執筆を辞めることなく活動し、63歳で文化勲章を受賞しました。73歳のころから口述筆記で創作活動をし、79歳のときに病気で亡くなりました。
磯田光一『細雪(下)』「人と文学」(1955年 新潮社)
谷崎潤一郎の作風
谷崎の作品には、一貫して「愚」が描かれます。谷崎は、下等なものとされる「愚」に価値を見出し、あえてそれを描いたのでした。それには、谷崎が生まれた場所が深く関係しています。
谷崎が生まれた日本橋は、そのころ江戸情緒の残る下町でした。そのため、谷崎は歌舞伎などの江戸時代の文化に親しみます。江戸時代の文化は、 良く言えば陽気で明るく、悪く言えば下品です。
大衆の間の読み物として主流だった戯作(げさく)は、ダジャレや下ネタのオンパレードでした。さらに、江戸時代は性に関してかなりオープンな雰囲気がありました。そしてそれらの「愚」は、近代化するにつれて失われていきます。
谷崎は、自分だけは失われていく「愚」を描き続けようとしたのです。
作風の全体像としては、「愚」という大きなテーマとなる幹があって、そこから西洋趣味だったり、日本文化だったりに枝分かれしていくようなイメージです。出来事や時期で分けてみました。
東大在学中
谷崎にとって、「美・悪・女」は同じ意味です。『刺青』では女の食い物になる男性の姿が描かれました。一見、誰かに隷属することは良くないことも様に思われます。
しかし、「愚」という美徳を持った人は、自ら愚かになる(服従・隷属する)ことに価値を見出すため、自分を殺して相手の言いなりになり、そこに充実感を覚えます。そのため、谷崎はマゾヒストと言われるのです。
また、そのやり方が極端だったりする(醜いことや、汚いこと、異常なことを描き、その中に美と感動を見いだそうとする)ため、谷崎は悪魔主義者と評されることがあります。
この頃の作品は、『刺青』『麒麟』『少年』『幇間(ほうかん)』『秘密』など。リンクを張った新潮社の短編集は、『麒麟』以外の作品が全て収録されているので、1冊持っておいて損はないと思います。
『刺青』
ページ数 | 273ページ |
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出版年 | 1968年 |
出版社 | 新潮社 |
関東大震災後
関西に移住した谷崎は、当時の妻・千代子の妹のせい子をモデルに、『痴人の愛』を執筆します。この作品には、西洋へのあこがれが色濃く出ています。
昭和に入ってからは、次第に日本の伝統に向かっていきます。古典を題材にしたり、関西弁を使った小説が増えていきます。
このころの作品は、『痴人の愛』『蓼食う虫』『吉野葛』『春琴抄』『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』など、『陰翳礼讃』は、ものすごく有名なエッセイです。一般教養として読むことをおすすめします。
日本の文化が「陰」の視点から捉えられていて、一気読みするくらい面白かったです。
『陰翳礼讃』
ページ数 | 192ページ |
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出版年 | 2014年 |
出版社 | KADOKAWA/角川学芸出版 |
戦中戦後
戦時中は、『細雪(ささめゆき)』が書かれます。関西のお金持ち4姉妹の優雅な生活が描かれ、現代版『源氏物語』とも言われています。
しかし、「質素倹約」が当たり前だった風潮と対立し、政府から発禁処分を受けます。谷崎は、それでもめげずに書き続け、戦後に完成させました。
晩年も女性へのあこがれや「愚」を描く姿勢は変わることなく、『瘋癲(ふうてん)老人日記』では、「女の足をかたどった墓石の下で、死んでも踏まれ続けたい」 と書くほどです。
この頃の作品は、『細雪』『少将滋幹(しげもと)の母』『鍵』『夢の浮橋』『瘋癲老人日記』など。一般的に、「谷崎=細雪の人」と認識されているので、『細雪』は必読です!
『細雪(上)』
ページ数 | 352ページ |
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出版年 | 1955年 |
出版社 | 新潮社 |
最後に
今回は、谷崎潤一郎の略歴と作風をご紹介しました。
日本を代表する作家である一方で、生涯で3回の結婚をするなど、かなり変わった生活を送った人物です。こうした、一般人がなかなかしないような経験をたくさんしているからこそ、素晴らしい作品を世に送り出せたんだなと感じます。