『ムーンライト・シャドウ』は吉本ばななの処女作で、大学の卒業制作として提出された小説です。
今回は、吉本ばなな『ムーンライト・シャドウ』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『ムーンライト・シャドウ』の作品概要
著者 | 吉本ばなな(よしもと ばなな) |
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発表年 | 1987年 |
発表形態 | 卒業制作 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 身近な人の死からの再生 |
『ムーンライト・シャドウ』は、1987年に作者の卒業制作として提出された短編小説です。1988年に泉鏡花文学賞を受賞しました。のちのヒット作『キッチン』と同じく、「身近な人の死からの再生」が描かれています。
著者:吉本ばななについて
- 日本大学 芸術学部 文芸学科卒業
- 『キッチン』で商業誌デビューを果たす
- 「死」をテーマとしている
- 父は批評家・詩人の吉本隆明(よしもと たかあき)
吉本ばななは、日本大学 芸術学部 文芸学科を卒業しており、卒業制作の『ムーンライト・シャドウ』で日大芸術学部長賞を受賞しました。『キッチン』が『海燕(かいえん)』という雑誌に掲載され、吉本ばななは商業誌デビューを果たしました。
吉本ばななが在学中、ゼミを担当していた曾根博義さんは「吉本ばななの小説は、あらゆる点でこれまでの小説の文章の常識を超えている」と評価しています。
作中では「死」が描かれることが多いですが、単に孤独や絶望を描くのではなく、人物がそれを乗り越えようとするエネルギーを持っているところが特徴です。父は批評家で詩人の吉本隆明で、姉は漫画家のハルノ宵子です。
『ムーンライト・シャドウ』のあらすじ
さつきは、等という恋人を交通事故で失ってしまいました。悲しみに暮れているさつきは、ジョギングをして気を紛らわそうとしています。
そんなとき、さつきはうららという女性から突然声をかけられます。うららは、「100年に1度の見もの」を見るためにやって来たのだと言いました。
それから、うららは「あさっての朝、この川で何かが見えるかもしれない」とさつきを川へ連れ出します。そこで、さつきは信じがたい光景を目にするのでした。
登場人物紹介
さつき
元恋人・等の死から立ち直れないでいる。
等
さつきの元恋人。弟の柊の彼女・ゆみこを車で送っている途中、交通事故で亡くなった。
柊
等の高校生弟。変わった性格。一人称は「ワタシ」。
ゆみこちゃん
柊の元恋人。柊の兄・等の運転する車が事故に遭い、亡くなった。
うらら
橋の上にいたさつきに突然声をかけた謎の女性。さつきにあるものを見せる。
『ムーンライト・シャドウ』の内容
この先、吉本ばなな『ムーンライト・シャドウ』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
身近な人の死の克服
うららとの出会い
等は、さつきが17歳~21歳の4年間付き合っていた恋人です。しかし、等は事故で亡くなってしまいました。それからというもの、さつきは気を紛らわせるために早朝のジョギングをしています。
あるときジョギング中のさつきは、等と最後に会った橋の上で水筒に入った熱いお茶を飲んでいました。そんなとき、さつきは「あたしも飲みたい」と声かけられます。驚いたさつきは、水筒を川の中に落としてしまいました。
「今度水筒買ってあげるわ。」うららと名乗ったその女性は、さつきにそう言いました。彼女は、「100年に1度の見もの」を見るために、遠くからこの街にやって来たのでした。
柊
等には柊という高校生の弟がいます。さつきは、その日学校帰りの柊と喫茶店で待ち合わせをしていました。
柊にはゆみこという恋人がおり、さつき・等・柊・ゆみこは4人で仲良くしていました。しかしある夜、等はゆみこを駅に送っている途中に事故に遭い、2人は亡くなってしまったのです。
柊は、セーラー服を着て喫茶店に現れました。セーラー服はゆみこの形見なのです。さつきのジョギングと同じく、柊は重い現実を克服しようとセーラー服を着るのでした。
「100年に1度の見もの」
さつきが風邪をひいているとき、突然うららから電話がかかってきました。うららは、「駅前百貨店の水筒売り場のところでね」とさつきに告げました。さつきは体調が悪いにもかかわらず、百貨店に行ってうららに水筒を買ってもらいました。
別れ際、うららは「あさっての朝、この川で何かが見えるかもしれない」と唐突に告げました。あさってのその時間は、100年に1度くらいにさまざまな条件が重なってかげろうのようなものが見える可能性があるのだと言います。
逢瀬(おうせ)
2日後、さつきとうららは例の橋で再会しました。うららは、「今から次元や空間がゆれたり、ずれたりする。あなたとあたしは並んでいてもお互いが見えなくなるかもしれないし、全くちがうものを見る。決して橋を渡らないで」と言いました。
さつきが目を閉じて開いたとき、そこには驚くべき光景が広がっていました。なんと、川の向こうに等が立っていたのです。
時間が止まればいいと思いながら、さつきは涙を流しました。等は笑って手を振ります。さつきも手を振り返しました。等が見えなくなったとき、横にはうららが立っていました。
2人はドーナツショップに入り、コーヒーを飲みながら話します。うららは、先ほどの現象を「七夕現象」と呼び、「変な形で別れた恋人と、最後の別れをしにこの街に来た」と言いました。そして2人は別れ、うららは人波に消えて行きました。
死の克服
後日、さつきはセーラー服を着ていない柊に会いました。柊は、おとといの朝に夢か現実か分からないところでゆみこに会ったのだと言います。ゆみこは柊のクローゼットからセーラー服を取り出し、持って行ってしまいました。
「ワタシ、気が変なんでしょうか」と柊はふざけて言い、さつきたちはたくさん笑いました。
『ムーンライト・シャドウ』の解説
うららは人間か?
うららは、なんとも人間味を帯びない登場人物です。
たとえば、朝もやのただよう夜明けのころにさつきの前に現れたうららは、「まだまだ寒い3月」の早朝だというのに「うす着に白いコートをはおり、少しも寒さを感じない」様子でたたずんでいました。
また、さつきはうららが登場したときに水筒を川に落とすほど驚いており、「本当にいつの間にか彼女はそこに立っていた」と語っています。うららは、それくらい気配を消していたということです。
さらにさつきは、初めてうららに会ったあと「どうも普通に暮らしている人間ではないように思えた」という感想を抱いています。
加えてうららは、さつきに「なぜうちの電話番号が分かったのか?」と聞かれたとき「どうしても知りたいな、と思うと自然にわかるようになっているの」と超人的な能力があることをほのめかす回答をしています。
極めつけは、「あたしも、変な形で死に別れた恋人と、最後の別れができるかもしれないのでこの街に来た」といううららの発言です。
うららは「変な形で死に別れた」としか言っておらず、どちらが死んだのかは明確にされていません。つまり、うららが「死んだ方」の可能性があるということです。
うららの「けっこう遠くから来たの」というあいまいな発言も、「遠くから来た=黄泉の国(よみのくに。死者の世界のこと)から来た」ということを示唆しているような気がしてなりません。
以上が、うららが人間ではないと判断できる根拠です。しかし、だからといって彼女を人外だと判断することはできません。なぜなら、うららはさつきに水筒を買ってやったり、お茶をしたりと幽霊にはできなさそうなことをやってのけるからです。
でも、これは「幽霊には実体がない」という仮説に基づいています。もし実体のある幽霊がいたら、もしくは幽霊が誰かの身体に乗り移って動くことができるのなら、うららが人間ではないと言える可能性は残されます。
ここまで考えて思い出したのは、江國香織『つめたいよるに』に収録されている「デューク」です。
この物語は、愛犬デュークを亡くして悲しみに暮れている女性が主人公です。彼女はやさしい青年と出会い、彼と1日を過ごします。そのおかげで彼女の心の傷は少しずつ癒(い)えていくのですが、彼女は別れ際にその青年がデュークに似ていると思います。
「デューク」についてはさまざまな論が展開されています。この物語から言えるのは、青年の正体がなんであれ、彼には実体があるということです。
『ムーンライト・シャドウ』には死者との交流が描かれており、本作はオカルトチックな作品です。うららの発言やさつきによるうららの語りを考えて、うららはすでに亡くなった人の霊魂が、身体を持って現れたものなのではないかと私は思います。
境界としての川と橋
『ムーンライト・シャドウ』では、「川」と「橋」がキーワードとなっており、小説中に何度も登場します。
橋はさつきと等が最後に会った場所であり、さつきが死んだ等と束の間(つかのま)の再会を果たした場所です。以下では、川と橋の役割について解説します。
あの世とこの世をつなぐ橋
川や橋には、「境界」という文化的な意味があります。
たとえばある程度の規模がある神社には、太鼓橋(たいこばし)というアーチ状の橋がかかっています。この橋は、「人間の世界と神の世界をつなぐ」という役割を果たしています。橋を渡ったら、神々の住まう神聖な世界が広がっているということです。
また、「三途(さんず)の川」も境界を表します。三途の川は死者の世界にあるもので、死にそうになる経験などをしたときに「三途の川を見た」などと言ったりします。
「ルビコン川を渡る」ということわざは「後戻りできない道へ進む」という意味ですが、「一線を越える」という意味ではやはり境界を連想させます。
「七夕現象」が起こる直前、うららはさつきに「橋を渡らないで。いいかい?」と言いました。これは、川と橋が境界を指していることを示した象徴的なセリフです。
うららは、「あの世とつながっている橋を渡ったら、この世には戻れないよ」と忠告しているのです。
前項では「うららは人間ではない」と結論づけましたが、これも根拠となっています。この場合、橋はあの世とこの世を結んでいると解釈できます。
つまり、「橋の上に突然現れたうららは、橋を渡ってあの世からやって来たのではないか?」ということです。
なぜ「熱い」お茶なのか?
『ムーンライト・シャドウ』には、熱いお茶が登場します。たとえば、ジョギング中のさつきは熱いお茶を飲んでいるときにうららに声をかけられます。
ただのお茶ではなく「熱い」と形容されている時点で、なにか特別な意味があるような気がします。以下では、熱いお茶が作中でどのような役割を果たしているのかを考えます。
時間かせぎ
お茶をすることは、一般的に休憩を意味します。また誰かとお茶をする場合、「その人との関係を深める」という意味合いもあるでしょう。熱いお茶は、作中でその両方を満たしています。
さらに、熱いお茶には「時間をかせぐ」という意味があると考えられます。湯気の立つ熱いお茶は一気に飲み干すことができないので、ふーふーと息を吹きかけて冷まして飲むからです。
ここで触れたいのは、さつきが等の死を受け入れられていないという事実です。以下に引用するのは、柊がセーラー服を着る理由をさつきが語る場面です。
今は、よく分かる。彼のセーラー服は私のジョギングだ。(中略)どちらもしぼんだ心にはりをもたせる手段にすぎない。気をまぎらわせて時間をかせいでいるのだ。
さつきは柊と同じく、等の死を直視することから逃げるため・直視することを先延ばしにするためにジョギングという行為を行っています。そこで、ジョギング中に行われる「お茶を飲む」という行為も、同じ意味を持つのではないかと思いました。
『ムーンライト・シャドウ』の感想
ジェンダーレス
吉本ばななの作品には、男性らしさも女性らしさも持っている、性別を越境した人物がたびたび登場します。『キッチン』や『満月』にも、トランスジェンダーの人物が登場します。
本作の場合、それは等の弟である柊です。柊は、ゆみこの形見であるセーラー服をごく当たり前のように着ています。羞恥心(しゅうちしん)はみじんも感じられず、喫茶店の店員にじろじろ見られても特に動じるそぶりは見せません。
こうした柊の行動は、さつきのジョギングと同じく「身近な人の死を克服すること」を目的としています。同時に、セーラー服はゆみこへの未練の象徴でもあります。ゆみこがセーラー服を持って行って初めて、柊はゆみこの死を消化しました。
しかし、柊はいつでもセーラー服を着ているわけではありません。「ちょっと人が振り向くようなかっこいい男の子」である柊は、あるときは黒いセーターに身を包んでいました。そうかと思いきや、1人称は昔から「ワタシ」だったりします。
男性っぽいと思ったら女性らしく、女性っぽいと思ったら男性らしく、うまい具合に男性性と女性性がミックスされているのです。
このようにジェンダーフリーなところや、型にはまらずに我が道をゆく魅力的な人物が登場するところが、吉本作品の好きなところです。
最後に
今回は、吉本ばなな『ムーンライト・シャドウ』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
『キッチン』『満月』『ムーンライト・シャドウ』は同じ文庫に収録されている作品です。これら3作品には「生・死・愛」という共通したテーマがあるので、一緒に読んでみるとより理解が深まると思います!