『神様』のくま、『蛇を踏む』の蛇、『パレード』の天狗など、川上弘美作品には人間と異種の交流が描かれることがありますが、『離さない』には人魚が登場します。
今回は、川上弘美『離さない』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『離さない』の作品概要
著者 | 川上弘美(かわかみ ひろみ) |
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発表年 | 1998年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 美と邪悪は紙一重 |
『離さない』は、1998年10月に『マリ・クレールジャポン』で発表された川上弘美の短編小説です。人魚に魅入られ自分を見失いそうになった2人の人物が描かれています。
著者:川上弘美について
- 1958年東京生まれ
- お茶の水女子大学理学部生物学科卒業
- 『蛇を踏む』で芥川賞受賞
- 紫綬褒章受章
川上弘美は、1958年生まれ東京都出身の小説家です。お茶の水女子大学理学部生物学科を卒業後、高校の教員を経て小説家となりました。
1996年に『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞し、その後も中年女性と初老の男性の恋を描いた『センセイの鞄』がベストセラーとなり、数々の文学賞を獲得しました。2019年には、その功績がたたえられて紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章しました。
『離さない』のあらすじ
登場人物紹介
わたし
主人公。上の階に住むエノモトとは気軽にコーヒーを飲み交わす仲。
エノモト
画家兼高校教師。主人公「わたし」の部屋の真上の部屋に住んでいる。
人魚
エノモトが旅先から持って帰って来た人魚。
『離さない』の内容
この先、川上弘美『離さない』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
美と邪悪は紙一重
旅先で手に入れたもの
あるとき、わたしは上の部屋に住むエノモトから「旅先で妙なものを手に入れた。よかったら相談に乗ってもらえないか」と電話を受けました。
わたしはいつもエノモトに呼ばれてコーヒーを飲みに行くときと同じように、階段をとんとんのぼり402号室のベルを押します。
エノモトに話を聞くと、2か月前に海沿いに南下して旅をしたとき、網にかかった人魚を見つけたのだと言います。「手に入れたものって、それじゃ、人魚なの?」と驚くわたしをエノモトは浴室に連れて行きました。
浴槽の中には、3分の1くらい張った水の中をすいすい泳ぐ人魚がいました。エノモトが鯵を1匹人魚に手渡すと、人魚はそれを実に優雅に食べていきます。
その美しさに魅了され、わたしはいつまでも人魚が鯵を食べるところをみたいと思いましたが、エノモトが浴室を出ていったためしぶしぶ浴室を後にしました。わたしは人魚のそばを離れたくないと思いました。
エノモトはコーヒーを淹れながら「出ていきたくなかったでしょ」とわたしに言います。そして人魚がいかに人を惹きつけて離さないかを説明しました。
そもそも大きな荷物になる人魚を連れて帰って来たのも、人魚の魅力に引き込まれてしまったからです。そのうちエノモトは人魚見たさに勤めに出るのがおっくうになり、やっとの思いで職場に行っても仕事中は人魚のことが気になって仕方がなくなりました。
そして飛ぶように家に帰って浴室に向かい、眠るときと食事のとき以外は浴室に入り浸るようになりました。それから人魚のそばを離れたくない余り5回欠勤してしまい、このままではいけないと思いエノモトはわたしに相談したのでした。
虜になったエノモト
それからエノモトのお願いを断り切れずに人魚を預かることになったわたしは、浴槽に水を満たしてエノモトが人魚を連れて来るのを待ちます。
やがてエノモトがやってきて浴槽に放ちましたが、エノモトはその場から離れようとしません。わたしが声をかけると、エノモトは光のない目でわたしをじっと睨みました。
それから数時間が経過してもエノモトは浴室から出て来ず、わたしはあきらめて眠ろうと思いました。すると真夜中に、エノモトが「うわあ」というような声をあげながらわたしの部屋から出ていきます。
わたしが浴室をのぞくと、人魚はふわりと水に浮かびながら眠っていました。
「離さない」
それから数日後、わたしはエノモトと同じ状態になってしまいます。わたしは食事の支度をしなくて済むようにできあいのものを買い、掃除をせず、洗濯もめったにせず、椅子や毛布や食器を持ち込んで浴室で暮らすようになりました。
これではいけないとときどき思いましたが、そう思う回数は次第に減っていきました。
人魚を預かってから1週間後、エノモトが「人魚を取りに来た。海に帰す」とわたしの部屋にやって来ます。2人は車で土手に桜の並木がある海に向かい、人魚が入った袋を持ったエノモトが水際で袋の口を開きました。
「帰すの、ほんとうに」とわたしが言うと、「帰す」とエノモトは弱々しく言います。「やめようよ」「やめない」ともっと弱々しい声でエノモトは答えました。砂に横たわる人魚から、2人は離れられません。
「帰す」と絞り出すように言ったエノモトと一緒に、わたしは人魚をかかえて水の中に入ります。「せえの」と掛け声をかけますが、何度言っても人魚は2人の手から離れません。
ようやく人魚を海に帰してエノモトに向かって「帰したね」と言ったのも束の間、人魚は2人の間にぽっかりと顔を出してわたしだけをじっと見て「離さない」と言いました。
うわあ、という声を出して、わたしは海岸に向かってめちゃくちゃに走ります。耳を塞いで砂に顔をうずめていると、人魚はいつの間にか去っていました。わたしとエノモトは、しばらく散る桜を眺めていました。
散った桜
翌日から高熱に苦しんだわたしの体調が戻ったころには、桜はすっかり散ってしまっていました。エノモトに「おいしいコーヒーいれますよ」と言われた私は、階段をのぼって彼の部屋に向かいます。
「人魚、なんだったんだろう」とつぶやくと、「魅入られたね」とエノモトが答えました。
「ずっと離さないでいるだけの強さがぼくにはなかったのかな」「それはわたしもそうだったのかもしれない」。そう言ったわたしは、窓の外に目を向けます。うすみどりの若葉が風に揺れる窓の外の様子を、わたしとエノモトはそれぞれに眺めました。
『離さない』の解説
エノモトという人物
馬場氏(参考)は下記論文で、『離さない』と安部公房『人魚伝』が人魚を題材としており、かつ類似する表現があることを指摘しています。
その上で、安部公房『人魚伝』では人魚に魅了された「ぼく」が描かれたのに対し、『離さない』では人魚の魅力が恐怖に変わる様子が描かれている点を挙げ、『離さない』を評価しています。
また、永遠に物語の中から抜け出せない「ぼく」と対比して、人魚を海に帰すことで人魚との関係を断ち、日常を取り戻すまでを描いた『離さない』は、『人魚伝』を超えようとする作品だとしています。
下記論文では、物語における主人公とエノモトの関係について触れられています。主人公とエノモトは、コーヒーの誘いで繋がっているあいまいな関係です。
そして馬場氏は、主人公にはエノモトとすべてを分かち合いたいという感情があることを指摘します。
例えば、エノモトの言葉に導かれるように主人公が人魚の虜になってしまう様子や、「いつの間にか、主人公はエノモトさんと同じ状態になっていた」と人魚に引き込まれている自身とエノモトの状態が同じであると決めつけているところにそれが表れています。
ところが主人公のその意識は、人魚を手離してから変化します。エノモトと海に人魚を返しに行った主人公は、当初人魚を離すことができませんでした。
しかし、エノモトの笑いをきっかけに人魚から手を離すことができ、エノモトと自身の存在の違いを認識します。
その結果、主人公は以前のようにエノモトの笑いに合わせることをしなくなり、コーヒーの誘いがあったときに軽やかな「とんとん」という足音を立てなくなりました。それは、人魚の一件を通してエノモトへの執着を捨てたことの表れです。
そして馬場氏は物語の随所に挿入される桜の描写について、主人公の心の移ろいが重ねられていると述べています。
馬場 真美子「川上弘美「離さない」 : 安部公房「人魚伝」との比較を中心に」(「立教大学大学院日本文学論叢 巻13」2013年10月)
『離さない』の感想
人魚のイメージが変わった作品
『離さない』というタイトルを見て、恋人にささやく甘い言葉というより執念のような凄みのある印象を受け、気になったので読み始めました。
人魚に静かに惹かれ、やがて本人たちが気づかないうちに後戻りできないほど人魚に魅せられてしまう恐怖を、読みながら感じました。
この短編における人魚の発言はわずか二言、三言ですが、そのまっすぐ届いてくる言葉が恐ろしく、ぞっとしました。魅力が恐怖に変わる瞬間です。
童話の影響で人魚には「美しい」「歌が上手い」などのプラスのイメージしか持っていなかったため、『離さない』での人魚の描かれ方が新鮮に感じました。
人魚を題材にした作品として、谷崎潤一郎『人魚の嘆き』をご紹介します。『人魚の嘆き』は、中国・清王朝を舞台に巨万の富を持て余した皇帝と、彼がオランダ商人から買った人魚の物語です。
最後に
今回は、川上弘美『離さない』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!