川上弘美『神様』の後日譚という位置づけの『草上の昼食』。
今回は、川上弘美『草上の昼食』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『草上の昼食』の作品概要
著者 | 川上弘美(かわかみ ひろみ) |
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発表年 | – |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 挫折 |
『草上の昼食』は、2001年に中公文庫『神様』に収録された川上弘美の短編小説です。
著者:川上弘美について
- 1958年東京生まれ
- お茶の水女子大学理学部生物学科卒業
- 『蛇を踏む』で芥川賞受賞
- 紫綬褒章受章
川上弘美は、1958年生まれ東京都出身の小説家です。お茶の水女子大学理学部生物学科を卒業後、高校の教員を経て小説家となりました。
1996年に『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞し、その後も中年女性と初老の男性の恋を描いた『センセイの鞄』がベストセラーとなり、数々の文学賞を獲得しました。2019年には、その功績がたたえられて紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章しました。
『草上の昼食』のあらすじ
登場人物紹介
わたし
主人公。305号室のくまと親しい。
くま
里帰りしたことをきっかけに
『草上の昼食』の内容
この先、川上弘美『草上の昼食』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
共生のほころび
ピクニック
わたしはくまに誘われて久しぶりに散歩に出ました。歩きながら、くまは先日北の方にある里に帰っていたことを明かします。2人はとりとめのない会話をしながら30分以上歩き、錆びた金網に囲まれた草原にたどり着きました。
くまは草原の真ん中あたりで敷物を広げ、持って来た食事を並べます。鮭のソテーオランデーズソースかけや赤ピーマンのロースト、ペンネのカリフラワーソース、いちごのバルサミコ酢かけ…くまは料理を1つずつ紹介しながら敷物の上に出しました。
「お料理はどこで」「自己流です」「上手」「今まで何でも自己流でしたから。学校に入るのも難しいですし」。そこまで聞いて、わたしは学校だけではなく難儀なことは多いだろうと思うのでした。
荒ぶる本能
そして虻の飛ぶ音を聞くうちにうとうとしていたわたしは、くまの呼びかけに目をさまします。「故郷に帰ることにしました」というくまの言葉に、わたしは驚きました。
わたしが理由をたずねると、くまは考え込んだのちに「結局馴染みきれなかったんでしょう」と言いました。「どうもこのごろいけません。合わせられなくなってきて」「合わせることなんてないのに」「そうでしょうか」。
やがて雨がひとつぶ、ふたつぶと降り出し、空が真っ暗になって遠くでごろごろとなり始めます。くまは傘として持っていたビーチパラソルを「危ないからやめますよ」と言って地面に放り、体でわたしを包むようにしてうずくまりました。
「怖くないですか」と問うくまに、わたしは「少し。少しこわい」と答えます。近くに雷が落ちたと思われる衝撃が走ったと同時に、くまはわたしから身を離して、おおおおおと大きな声で吠えました。
くまはわたしを忘れたかのように獣の声をあげ、わたしはこわい、と思いました。
熊の神様、人の神様
雷がおさまって片付けをしていたとき、わたしは「熊の神様って、どんな神様なの」と問いました。「熊の神様はね、熊に似たものですよ」「人の神様は人に似たものでしょう」「そうね」「人と熊は違うものなんですね」「違うのね、きっと」。
くまは、故郷に帰ったら手紙を書くと言い、以前のように親しい人と別れるときの抱擁はしないのでした。
夏になってから、くまから手紙が届きました。封筒の裏には差出人の名前と住所は書かれておらず、消印はこすれて読み取れません。わたしは3回繰り返し読み、3回目には泣きそうになりましたが泣きませんでした。
わたしは机に向かって返事を書き、宛先の入っていない封筒に返事の手紙を入れて机の奥にしまいます。床に就いたわたしは、熊の神様と人の神様にお祈りをし、出されないであろうくま宛の手紙のことを思いながら眠るのでした。
『草上の昼食』の解説
無視できない違い
くまは青年期から現在まで人間社会で暮らしたと語り、さらに『神様』ではくまに対して敬語を使っていた主人公が『草上の昼食』ではタメ語で話してることから2人の親密度が上がったが推測され、『神様』で主人公とくまが初めて河原に散歩に行ってから相当な時間が流れたと思われます。
それにもかかわらず、くまは相変わらず感情を表に出さず紳士的に振舞います。
荒木氏はくまのこの紳士性について、くまの行動基準が自分自身ではなく自分が所属するコミュニティ(本作で言う人間社会)のルールに則っているからだと述べています。
そして自分軸ではなく社会軸で行動することは時代遅れであり、それゆえ「自分がどうしたいか」という個を基準として行動する時代を生きている主人公から見て、くまは「少々大時代」に映るとしています。
くまが懸命になじもうとしている人間社会は現行のものとは乖離があり、そのためくまが人間社会に同化しようとしても、それは一世代前社会であるため完全になじめたことにはならないという結果になってしまうと言えるのです。
さらに注目すべきは、くまが徐々に自己をコントロールできなくなっていることです。いんげんを「つい」手づかみで食べてしまったり、雷雨の中咆哮(ほうこう)してしまったり、くまは自分の中の獣性を制御できなくなっていました。
これは、くまが人間社会になじもうとした結果ほころびが生じ、初めは見逃せる程度のものだったのが段々と取り返しがつかないほど大きくなってしまったことを示しているのではないでしょうか。
現に『神様』でも人間とくまの違いは描かれていますが、それはそこまで大きな問題としてクローズアップされていません。しかし、『草上の昼食』では咆哮に代表される人間との絶対的な違いが表出しています。
このようにくまと人間の違いが決定的となり、熊の神様と人の神様が別物だと分かったため、主人公は物語の最後に熊の神様と人の神様それぞれに祈ったのではと考えました。
荒木 奈美「川上弘美『神様』『草上の昼食』論 :『くま』の生きづらさを通して見えてくるもの」(「札幌大学総合論叢 32」2011年10月)
『草上の昼食』の感想
埋まらない溝
『草上の昼食』で、くまは当初人間社会になじんでいるかのように見えます。例えば「車です、ともだちに譲ってもらったセコハンですがね」と、くまが少し得意そうな様子になる場面があります。
ここからはお下がりの車をくれるような(人間の?)ともだちがいる、さらに「セコハン」という略語を使いこなしていることからが分かり、ここからくまが人間社会に溶け込んでいることが読み取れます。
しかし、「薄皮を剥くのが少しむつかしいでした」という少々違和感のある話し方や、人間とくまではツボが違うために効かない鍼、中古車屋への電話で相手がくまだと分かるとどの店も態度が冷ややかになったという出来事など、どうしようもない絶対的な違いが示されます。
極めつけは、故郷に帰ったくまからの手紙です。
毎日魚を採ったり草を刈ったりしているうちに、いつの間にか時間がたってしまいます。
こちらでは毎日が早いのです。
そちらで身についた習慣もだんだんに忘れます。
楽しく暮らしております。
料理もしなくなりました。
しなくなると、どうやってあのようなことができたのだか不思議になります。
「こちらでは毎日が早いのです」というところからは、日の出とともに動き出し、日没とともに床に入るという生き物本来の生き方をしていると推測できます。
「そちらで身についた習慣もだんだんに忘れます」、その後ろに続く「楽しく暮らしております」からは、人間社会になじもうと無理に身につけた習慣を忘れて楽になったというニュアンスが伝わってきます。
さらに、主人公が「熊の世界で一番の料理上手だと思う」と評する腕前のくまが、料理を忘れるというのも悲しいです。
くまは人間に同化できなかった。『神様』では違いがそこまで悪目立ちしていなかった分、『草上の昼食』ではそれが無視できないレベルになったことが示され、読んでいて主人公と同じく切ない気持ちになりました。
最後に
今回は、川上弘美『草上の昼食』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!