今回は、村田沙耶香『街を食べる』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『街を食べる』の作品概要
著者 | 村田沙耶香(むらた さやか) |
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発表年 | 2009年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 変化する価値観 |
『街を食べる』は、2009年に文芸雑誌『新潮』(8月号)で発表された村田沙耶香の短編小説です。
著者:村田沙耶香について
- 日本の小説家、エッセイスト
- 玉川大学文学部卒業
- 2003年に『授乳』で群像新人文学賞優秀賞受賞。
- 人生で一番読み返した本は、山田詠美『風葬の教室』
村田沙耶香は、1979年生まれの小説家、エッセイストです。玉川大学を卒業後、『授乳』でデビューしました。
山田詠美の『風葬の教室』から影響を受けています。ヴォーグな女性を賞する「VOGUE JAPAN Women of the year」に選ばれたこともあります。美しく年を重ねている印象がある女性です。
『街を食べる』のあらすじ
東京の野菜が嫌いな理奈は、子供のときに食べた田舎の野菜の味を思い出したことで野草を摘むようになります。
初めは人目をはばかり野草を摘む自分の姿に辟易し、摘んだ野草も食べられる代物ではなく落胆しますが、あることをきっかけにその魅力に目覚めて街を食べる感覚に夢中になるのでした。
登場人物紹介
理奈(りな)
都内で1人暮らしをしている会社員。好き嫌いが多い
雪(ゆき)ちゃん
理奈の同僚。理奈が幼少期の田舎でのエピソードに憧れる
『街を食べる』の内容
この先、村田沙耶香『街を食べる』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
変化する価値観
都会の野菜
日本橋のオフィスに勤める理奈は、同僚の雪ちゃんとランチに出ました。野菜嫌いの理奈がサンドイッチからトマトをつまみ上げるのを、雪ちゃんは指摘します。
「野菜とらないと、やっぱり体に悪いよ」「うーん、わかってるんだけどね」。理奈はそう言いながら、埼玉の実家を出て一人暮らしをしてからの方が好き嫌いが激しくなったのは、東京の野菜が美味しくないからではないかと思いました。
子供時代、長野の山奥に住んでいた祖母が畑から採ってきてくれた野菜は普段食べるものよりずっと甘く、食が細かった理奈でも田舎ではいつもの倍の量を食べるほどでした。東京の野菜は田舎の野菜とは違ってしなびて生臭いため、好き嫌いに拍車がかかったのです。
理奈は、田舎で野イチゴや小さな葉っぱを摘んで口にしたり、焼いた雀を食べたことを思い出して「食べものを少しずつ山の中からもぎ取りながら、夕暮れを散歩できたらなあ」と思うのでした。
そしてある日の帰り道、花壇に蒲公英(たんぽぽ)を見つけた理奈はそれを摘んでみました。そして帰宅後にカバンから取り出し、ジャムの空き瓶にさしました。
公園の蒲公英
翌日、雪ちゃんと会話して会社帰りに蓬(よもぎ)を摘みに行く気になった理奈は、ウォーキングを兼ねた遊びのつもりで公園を回り始めました。日本橋から東京駅まで歩いて噴水公園にたどり着いた理奈は、周囲の目を気にしながら植木の雑草を物色します。
自身の姿を俯瞰(ふかん)した理奈は、「ゴミを漁る鴉(からす)のようだ」と思いました。そして手当たり次第に蒲公英をちぎって袋に入れ、万引きをするかのようにカバンに押し込んで帰路につきました。
家に帰って袋の中身を見ると、到底食べもののようには見えない緑が貼りついていました。葉をゆでてからみそ汁にしようと思い包丁で切ってみると、濃い汁がにじんで校庭で草むしりをしたときのような青臭い匂いが広がります。
出来上がったみそ汁はゴミが浮かんだ下水のようでした。勇気を出して口にすると湿ったティッシュペーパーのような感触が残り、公園を歩く人間の光景が浮かんで吐き気がこみ上げました。
次の日、出勤した理奈は体調を崩して早退しました。薄暗い部屋で横になった理奈は田舎の家のことを思い出します。そこでは部屋にいても木々のざわめきや虫の鳴き声が聞こえ、人間以外の生命の気配を強く感じることができました。
そして祖母が東京に遊びに来たときに「東京と田舎は大して変わらない」と言っていたことを思い出し、祖母は人工的な騒音に溶けてしまって分かりにくくなってしまっている生命の息吹を感じていたのかもしれないと思うのでした。
覚醒
丸二日以上横になり、月曜日の朝5時に目をさました理奈は部屋にいた蟻を外に逃がし、蟻の後をついて家を出ました。蟻はアパートとフェンスの間にある隙間に入っていき、隙間を見るとそこには雑草が茂っていて大きな葉をたくわえた蒲公英が2株生えていました。
葉に触れると瑞々しい水分が伝わってきて、寝込んでいた間に水とゼリーを少ししか食べていなかった理奈は突如激しい空腹感に襲われました。2株の蒲公英を引き抜いて持ち帰って洗ってざるにあげると、ざるの半分以上が葉と花で埋まりました。
蒲公英を切ってゆでると豆をのような匂いが立ちこめます。我慢できずに一切れ口に含むと、ほろ苦さとともに小松菜と菜の花の中間のような淡い緑の味がしました。
ごぼうに似た蒲公英の根を多めの油で炒めて食べると香ばしさが広がり、花の部分は味が薄いものの柔らかく、用意した醤油が必要ないほどです。
蒲公英を夢中で食べていると外から人の話し声が聞こえてきて、日本語であるにもかかわらず理奈は会話の内容が理解できませんでした。
布教
風邪が完全に良くなった水曜日、理奈お手製の弁当を覗き込んだ雪ちゃんは、蒲公英の炒め物を見て「やめといたほうがいいんじゃない?只の雑草だもん」と言いました。
そして「こっちは?」とオオバコの玉子焼きについて聞かれた理奈が祖母が送ってくれたものと答えると、雪ちゃんは羨ましがります。理奈は、田舎の山で摘んだ草なら良いとする雪ちゃんをどこか馬鹿にした気持ちで眺めるのでした。
それから毎日野草を食べるようになった理奈は、会社帰りにお腹をすかせた状態で野草を探し回ることを日課としています。こうして野生的に歩き始めると、都会の中に今まで感じることのなかったさまざまな生き物の気配を感じることができました。
翌日、理奈の弁当に興味を示した雪ちゃんに、理奈はおかずをおすそわけします。理奈は、田舎の話をしながら拒否反応を示されないように慎重に雪ちゃんをこちら側へ引きずり込もうとしているのです。
理奈は雪ちゃんに優しく語りかけ、ゆっくりとこちらの生理感覚を刷り込んでいきます。雪ちゃんに自分と同じような素晴らしい変化が起こることを想像しながら、理奈は「街を食べる」感覚を植え付けるのでした。
『街を食べる』の解説
蒲公英への印象
『街を食べる』には、理奈が蒲公英を食べるシーンが2回あります。会社帰りに試しに公園で摘んでみたのが1回目、風邪から回復したあと空腹に耐えきれず食べたのが2回目です。
そして、1回目から2回目にかけて理奈の「街を食べる」ことへの気持ちが大きく変化しています。1回目は東京駅の公園で2回目は理奈の家という違いはありますが、同じ東京であることには変わりありません。
では、なぜこれほど理奈の心境に変化があったのか。それを明らかにすべく、まずは1回目と2回目の描写を比較します。
1回目 | 2回目 | |
周囲の目 |
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採取時の理奈の描写 |
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マイナスな表現 |
| 特になし |
生えている野草の描写 | 特になし |
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帰ってきてからの野草の描写 |
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調理中 |
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味 |
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1回目の蒲公英は下水や泥という食べ物とは乖離した描写ですが、2回目の蒲公英はごぼうや豆、小松菜、菜の花など実際に私たちが口にする食べ物に例えられています。
こうした違いには、理奈の気の持ちようが影響しているのではないかと考えます。見た目こそ2回目の蒲公英の方が大きく立派ですが、味がそこまで大きく変わるとは考えがたいからです。
後ろめたい理奈
1回目の理奈は蒲公英を摘むことに後ろめたさを感じていたため、周囲の目を気にしていたことによりマイナスな表現が使われていますが、2回目はそうしたマイナス表現は特にありませんでした。
1回目は公園の雑草を食用として摘む行為に懐疑的であったため、味にも否定的なバイアスがかかっていたのではないでしょうか。
そして2回目はあまりの空腹で体裁を気にする余裕がなく、雑草を摘むことへのためらいや迷いを感じなかったため、摘む行為自体を肯定したことによって美味しく感じられたのではないかと考えます。
理奈を懐疑的にさせていたもの
1回目の理奈は、世の中の常識によって雑草摘みへの否定的な印象を拭いきれずにいました。
土9割、コンクリート1割の田舎において大地をいただくことは当たり前です。これは、都会で摘んだ蒲公英には嫌悪感を示し、田舎の山で摘んだオオバコは良しとする雪ちゃんの発言から読み取れます。
しかしコンクリート9割、1割が土の都会では、1割の土から命をいただくことは異端です。これは、鳥の墓を作る子供が理奈を怖がる様子からうかがえます。
1回目の蒲公英のエピソードは、世の中のこうした常識が理奈に「自分は異端なことをしている」という意識を芽生えさせ、それが蒲公英をよりまずく感じさせる要因となったと言えます。
そして2回目の蒲公英のエピソード以降、都会で息を潜める数々の生き物の気配に気づいた理奈は「街を食べる」ことに積極的になり、より「動物的」な生き物になっていきます。
これを象徴しているのが、「それは日本人の会話であり、意味はわかるはずなのに、採れたての緑を夢中で味わっている私には理解できなかった」という一文です。
に示されるように人間ではない動物になっていくのです。
『街を食べる』の感想
私たちは矯正されている
村田沙耶香の作品を読むとき、物事と物事の境目を考えることが多いと感じます。本作で言うと、なぜ「山を食べる」はノーマルで「街を食べる」はおかしいのか。
また『タダイマトビラ』で言うと、他人らしい家族と、限りなく家族に近い他人の違いは何か。
そして村田作品の根底にあるのは、「私たちは矯正されている」という意識です。上記ように事象と事象の境界線を考えることから出発して、私たちはその境界線という名の常識を妄信している事実がまず明かされます。
それから、信じていた常識が実は何ものかによって作られたものであることが示されます。無意識的に当たり前と思っていたことは、自分以外の何かによって内面化されていたに過ぎないのです。
そしてその境界線、すなわち常識を形作っているのは世論です。だからこそ境界線は変わっていく、つまり「常識は変化する」のです。
このように、「世論によって形作られ、故に変わることが確かなあやうい常識を、私たちはさも自分にとって当たり前のことかのようにごく自然に取り入れてしまっている」というのが、村上作品を貫く1つの軸だと思いました。
そして彼女の作品には、こうした常識に疑問を持っている人物が常識を取り入れるまでの過程が描かれます。
『街を食べる』の理奈は当初雑草を食べることに懐疑的でしたが、最終的にはその魅力に気づきそれを雪ちゃんに布教するように良さを伝えようとしました。
『生命式』の真保は、子供の頃はタブーだった人肉食が月日を経て肯定されるようになったことに戸惑いますが、最終的に現在の常識を受け入れました。
村田作品を読むと、自分の周りの当たり前を疑ってみようという気持ちになります。
例えば、『街を食べる』は食べ物の話だったので、「屠殺は本当に残酷か」ということを考えました。
スプレーで番号を書かれた家畜が入荷され、屠殺場からは家畜の断末魔が聞こえ、部位ごとに流れ作業でバラバラに切断される……確かにこれだけ聞くと、なんて野蛮で非人道的な行為なんだろうと思います。
しかし本当に残酷なのは、自分たちは手を汚さずに肉を求める都合の良い消費者なのではないかと思います。消費者は誰かが処理して精肉されてパックになった肉をスーパーで買って喰らい、売れ残りは廃棄されてしまいます。
では肉を食べないヴィ―ガンが正義か?と言うと、考え方によっては違うのかなと思います。彼らが肉を食べないせいで余った肉が捨てられるとしたら、食べられることを目的に殺された家畜からすればとてつもなく非道な習慣でしょう。
思い込みすることは、自分の思考を止めてしまうことと同義です。世の中の共有認識を鵜吞みにせず立ち止まって、自分のなかで取捨選択したり、受け入れるにも常識に対して自分の考えを持っておきたいと感じました。
最後に
今回は、村田沙耶香『街を食べる』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!