語り手がストーカーという、一風変わった小説『むらさきのスカートの女』。子供たちの遊び、バザー、「黄色いカーディガンの女」……ちりばめられたいくつもの要素が、最後につながる様子は圧巻です。
今回は、今村夏子『むらさきのスカートの女』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『むらさきのスカートの女』の作品概要
著者 | 今村夏子(いまむら なつこ) |
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発表年 | 2019年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 中編小説 |
テーマ | 承認欲求 |
『むらさきのスカートの女』は、2019年に雑誌『小説トリッパー』(春季号)で発表された今村夏子の中編小説です。近所に住むむらさきのスカートの女に興味を持った「わたし」が、彼女を同じ職場に誘導して観察する様子が描かれています。
第161回芥川賞受賞した本作の全文は、2019年9月号の『文藝春秋』に掲載されています。
著者:今村夏子について
- 1980年大阪府生まれ
- 『こちらあみ子』でデビュー
- 『むらさきのスカートの女』で芥川賞受賞
- 小川洋子を敬愛している
今村夏子は、1980年生まれ大阪府出身の小説家です。風変わりな少女が主人公の『こちらあみ子』で第26回太宰治賞を受賞し、小説家デビューを果たしました。その後、『むらさきのスカートの女』で第161回芥川賞を受賞し、再び注目されています。
作家の小川洋子を尊敬していると発言しており、『星の子』の巻末には2018年に文芸雑誌『群像』に掲載された小川洋子と今村夏子の対談が収録されています。
『むらさきのスカートの女』のあらすじ
語り手の「わたし」は、近所で有名なむらさきのスカートの女に興味を持っており、友達になりたいと思っています。
そこで、「わたし」はむらさきのスカートの女を自身の職場に働きに来るように誘導し、自己紹介の機会をうかがって彼女の観察するのでした。
登場人物紹介
わたし
語り手。むらさきのスカートの女と友だちになりたいと思っている。ホテルの清掃員をしており、チーフのうちの1人。
むらさきのスカートの女
30歳前後の女性。本名は日野まゆ子。いつもむらさき色のスカートを穿いているため、近所では「むらさきのスカートの女」と呼ばれている。ホテルの清掃員として働き始める。
所長
ホテルの事務所の所長。清掃員をまとめている。
『むらさきのスカートの女』の内容
この先、今村夏子『むらさきのスカートの女』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
影が実像を凌駕(りょうが)する
「友達になりたい」
わたしの近所には、むらさきのスカートの女と呼ばれる人がいます。彼女はいつも紫色のスカートを履いているので、そう呼ばれているのです。
彼女は、週に1回パン屋でクリームパンを買い、商店街を抜けた先の公園に行きます。そこにはむらさきの女専用シートと名付けられたベンチがあり、彼女はいつもそこに座るのです。
彼女がむらさきのスカートの女なら、わたしは黄色いカーディガンの女だ、とわたしは思うのでした。
わたしは、通行人をスイスイよけるむらさきのスカートの女に、自らぶつかりに行ったことがあります。しかし見事に避けられ、わたしは肉屋のショーケースにぶつかってそれを壊してしまいました。
おかげで多額の修理費を請求され、バザーで小銭稼ぎをしてなんとか返済したという苦い思い出があります。
むらさきのスカートの女のことは町の多くの人が知っていて、さまざなまジンクスが生まれるほどです。
子供達の間では、ジャンケンに負けた子が専用シートに座る彼女にタッチするという遊びまで存在します。そんなむらさきのスカートの女と、わたしは友達になりたいと思うのでした。
友達になるためには、同じ職場で働く必要があるーー。そう考えたわたしは、足しげくコンビニに通って求人情報誌をもらい、めぼしい求人に印をつけ、むらさきのスカートの女専用シートに置きました。そしてついに、彼女はホテルの清掃員として採用されたのです。
ホテルでの勤務
初出勤の日、むらさきのスカートの女はあいさつも自己紹介もロクにできない状態でした。わたしは、そんな彼女の姿を同じスタッフとして見守ります。しかし、所長の発声練習の成果もあってか、むらさきのスカートの女の声は徐々に出るようになります。
あいさつを身につけてスタッフから好かれるようになったむらさきのスカートの女は、スタッフから果物をもらいます。
「わたしがもらっても、いいんでしょうか……?」とわたしのことを気にするように言います。「いいの、この人は果物が嫌いなんだから」「ねえ、権藤チーフ」そう聞かれたわたしが答える間もなく、むらさきのスカートの女は果物をもらってしまいました。
その日の退勤後、むらさきのスカートの女は公園でもらったりんごを食べていました。そこに子供たちがやってきて、例のむらさきのスカートの女にタッチする遊びを始めます。そこで、彼女と子供たちは打ち解けて仲良くなりました。
あるとき、公園で子供たちと話していたむらさきのスカートの女は、小学校でバザーが行われていることを知ります。子供の1人が、むらさきのスカートの女が働いているホテルのロゴが入ったタオルを、バザーで買ったと言うのです。
勤務3日目、むらさきのスカートの女はバスで通勤中に痴漢の被害に遭ってしまいます。それからというもの、むらさきのスカートの女はバスを使わなくなりました。彼女の動向に詳しいわたしでも、彼女がどうやって通勤しているのか分かりませんでした。
バザー事件
それから、ホテルの従業員の間では「所長とむらさきのスカートの女が付き合っている」というウワサが立ちました。「わたし」はさっそく事実確認を行い、現場を押さえます。
そんなとき、「ホテルの備品がバザーで売られている」という通報がホテルに来ました。小学校のそばに住んでいるむらさきのスカートの女は疑われてしまい、仕事場から逃げ出してしまいました。
彼女の跡をつけていたわたしは、所長とむらさきのスカートの女が口論になっている場面に遭遇します。むらさきのスカートの女と関係を持っている所長も、同じく疑われていたのでした。
もみ合いの末、所長は2階から転落して動かなくなります。そこへわたしが駆け寄り、むらさきのスカートの女のために手配した宿へ行くようにと指示を出しました。
わたしがむらさきのスカートの女
わたしとむらさきのスカートの女は、それきり会っていません。わたしは、むらさきのスカートの女がいつ帰ってきてもいいように、「むらさきのスカートの女専用シート」に座ってクリームパンを食べます。
そのとき、わたしは子供にぽん、と肩をタッチされたのでした。
『むらさきのスカートの女』の解説
ストーカーの語り手
私が本作を読み始めて数ページで感じたのは、「語り手が異様に気味悪い」ということでした。物語では、冒頭からむらさきのスカートの女のことが詳細に語られています。気持ち悪いのは、これが3人称小説ではなく1人称小説であるということです。
1人称と3人称
小説には、1人称のものと3人称のものがあります。1人称小説では、物語は登場人物の視点を通して展開されます。
一方で3人称小説は、物語の外部にいる「何者か」が物語るという形式の小説です。この「何者か」は、登場人物の内面や舞台の状況など、物語世界のことをすべて把握しているため「全知の神」と呼ばれたりもします。
1人称小説の語り手はあくまで小説に登場する一個人なので、その語り手が持っている情報量には限界があります。
ところが『むらさきのスカートの女』の語り手は、そんな1人称小説の「情報の欠如」という欠点を感じさせないほど、むらさきのスカートの女のことを知っています。つまり、語り手はむらさきのスカートの女のことを調べ上げているということです。
語り手の「わたし」は、むらさきのスカートの女が週に1回商店街のパン屋にクリームパンを買いに行くことや、商店街を抜けた先の公園のベンチでクリームパンを食べることを知っています。
さらに、むらさきのスカートの女がボロアパートの201号室に住んでいることや、彼女が仕事をする時期、勤め先、休日の過ごし方まで「調査済み」で、むらさきのスカートの女の行動パターン・生活スタイルを完璧に把握しているのです。
語り手が持っている情報が限られるはずの1人称小説なのに、この小説では語り手が1人の人物に関する情報を尋常じゃないほど持っている。この違和感に、言い知れぬ不気味さを感じました。
姿を現さない語り手
以上のように、『むらさきのスカートの女』において語り手の「わたし」は、むらさきのスカートの女を観察することに徹しているのです。それはつまり、語り手本人である「わたし」のことが詳細に語られないことを意味しています。
実際、「わたし」の正体が、実はむらさきのスカートの女と同じホテルで働く「権藤チーフ」だったという事実は、物語の中盤で徐々にほのめかされ、最後の最後にむらさきのスカートの女の口から明かされました。
「わたし」は完全にむらさきのスカートの女の影に隠れており、「わたし」の立ち位置が明かされないまま物語が進んでいくのです。そしてこれは、わたしの存在感が薄いことと直結しているのではないかと思われます。
「わたし」の本当の目的
「わたし」は、むらさきのスカートの女と友達になるために彼女に接近しました。しかしそれは口実で、「わたし」は本当はむらさきのスカートの女になりたかったのではないかと思いました。
なぜかというと、「わたし」がむらさきのスカートの女に憧れている節があるからです。具体的に言うと、「わたし」はむらさきのスカートの女の「知名度」に興味を持っているように思われるのです。
思えば、「わたし」は影のように目立たない人物です。
むらさきのスカートの女の名前が「日野まゆ子」と明かされていたり、職場の職員やむらさきのスカートの女と接触していた小学生の名前が示されているのに対し、「わたし」の名前は最後の最後まで明かされませんでした。
さらに、「わたし」は職場でハブられている存在であり、家賃の支払いが滞(とどこお)っているせいで世間から冷たく扱われたりしています。
そんな彼女に、「誰かに自分の存在を知ってもらいたい・認めてもらいたい」という欲求が芽生えてもおかしくありません。むらさきのスカートの女の知名度への憧れは、以下の引用部で確認できます。
あちらが「むらさきのスカートの女」なら、こちらはさしずめ「黄色いカーディガンの女」といったところだ。
残念ながら「黄色いカーディガンの女」は、「むらさきのスカートの女」と違って、その存在を知られていない。
「黄色いカーディガンの女」が商店街を歩いたところで、誰も気にも留めないが、これが「むらさきのスカートの女」となると、そうはいかない。
「残念ながら」というところから、「存在を知られてい」ることが「わたし」にとって価値のあることなのだと読み取れます。
むらさきのスカートの女は、悪い意味で注目を浴びています。しかし、悪い意味であろうと他人からの関心を集めていることは事実です。「わたし」はそこに憧れたのではないでしょうか。
「わたし」は、「あちらが『むらさきのスカートの女』なら、こちらはさしずめ『黄色いカーディガンの女』といったところだ」と言っていますが、むらさきのスカートの女の真似をして特定の衣類を着るようになったのではないか?とここでは推測できます。
むらさきのスカートの女と同化したい。その気持ちが、「わたし」のむらさきのスカートの女への異常な執着、ストーカー行為につながったのだと考えられます。
自分がむらさきのスカートの女になるためには、本物のむらさきのスカートの女に消えてもらう必要がありますが、最終的にむらさきのスカートの女は町から去りました。
こうしてむらさきのスカートの女の影に隠れていた「わたし」は、本物のむらさきのスカートの女を越えて新しいむらさきのスカートの女(黄色いカーディガンの女)になりました。
それは、「わたし」が最終的にむらさきのスカートの女専用シートに座るようになったことが象徴しています。文字通り、「わたし」はむらさきのスカートの女の座を奪ったのでした。これが、「わたし」の本当の目的ではないかと思うのです。
補足:信用できない語り手
「『わたし』の本当の目的はむらさきのスカートの女になること」という仮説に納得できない人もいるのではないと思います。「わたし」は、小説内で「むらさきのスカートの女と友達になりたい」と言っているではないか、と。
ここで、今村作品における語り手は信用できないということに触れたいと思います。
1人称小説は、1人の登場人物のフィルターを通して作品世界をとらえることになるため、語りの内容が偏るという特徴があります。言い換えれば、語り手が必ずしも正確な情報を読者に提供するとは限らないということです。
今村作品は、それが顕著なものが多いと思います(この「語りの信用できなさ」については、『ピクニック』の解説でも触れています)。
だからこそ、「わたし」の「むらさきのスカートの女と友達になりたい」という発言を、100%鵜吞みにしてはいけないと思うのです。
バザー事件の真犯人
匿名の「わたし」
あるとき、ホテルには「ホテルの備品がバザーに流されている」という通報がありました。そして、バザーが行われている小学校の近所に住んでいるということで、むらさきのスカートの女が疑われてしまいました。
結局犯人が誰かは小説内では明かされませんでしたが、私は語り手の「わたし」が犯人なのではないかと思います。
1つ目の理由:「わたし」のバザー利用歴
1つ目の理由は、「わたし」がバザーを利用していたことがあったからです。「わたし」は、ショーケースの修理費の支払いのためにバザーでお金を集めていたことがありました。
しかし、バザー事件が起きた時点ではすでに完済しているので、「わたし」はそのときバザーを利用していなかったかもしれません。
ところが、「わたし」は家賃を踏み倒すほどお金に困っています。生活の足しにするためにわずかなお金でも欲しがるはずなので、ここでは「わたし」がバザーに出品していた可能性があると考えます。
さらにバザー事件の前、むらさきのスカートの女と会話をしていた小学生は、「バザーでホテルのタオルを買った」と言っていました。むらさきのスカートの女は、ここで初めて小学校でバザーが行われていることを知ります。
つまり、むらさきのスカートの女が仮にバザー事件の犯人だったとしても、それよりも前にホテルの備品をバザーに出していた人物がいるということです。
2つ目の理由:匿名
もう1つの証拠は、「バザーに出されている商品がホテルの備品である」という通報が、匿名でなされたことです。たんに「通報があった」ではなく、「通報者は匿名だった」とあるのがなんとも引っかかるところです。
3つ目の理由:子供たちの証言
決定的な証拠は、店番を頼まれた子供たちが「女の人に頼まれた」と証言したことです。むらさきのスカートの女は近所で有名なので、ここで子供たちは「むらさきのスカートの女に頼まれた」と言うはずです。
もっと言えば、子供たちはむらさきのスカートの女のことを「まゆさん」と名前で呼んで慕っています。もしむらさきのスカートの女が犯人なら、子供たちは「まゆさんに頼まれた」とも言うはずです。
子供たちがたんに「女の人に頼まれた」と言ったのは、それ以外の情報を知らなかったからではないでしょうか。読者にすら名前を明かさない匿名の女性は、この小説では語り手の「わたし」だけです。そのため、真犯人は「わたし」なのではないかと思いました。
本当の目的のために
では、なぜ「わたし」はむらさきのスカートの女にバザーの罪を着せたのか。
それは、「わたし」がむらさきのスカートの女を町から遠ざける口実を作りたかったからではないでしょうか。
上の項で述べた通り私は、「わたし」の目的がむらさきのスカートの女の座を奪うことだと考えています。彼女に自主的に町から出てもらうために、「わたし」はむらさきのスカートの女に濡れ衣を着せたのだと考えられます。
現に、「わたし」はむらさきのスカートの女に町を出る指示を出すとき、これまでの大人しい様子からは想像できないほど早口で、まくしたてるように熱く話しました。これは、「早く町から出てほしい」という願望の表れだと思います。
『むらさきのスカートの女』の感想
今村ワールドの魅力
今村夏子さんは、他の作家にはないような独特の世界を描く作家です。
本作の場合、むらさきのスカートの女は爪が真っ黒だったり、店に入らないで自販機で買い物を済ませたり、指の隙間からアーモンドがこぼれているのに気づかないまま、もしゃもしゃとパンを食べていたり……。
要領が悪く、世間知らず。上手く立ち回れず、冷たい視線を送られる。そんな絶妙にリアルな社会不適合者の要素を感じさせる人物も、彼女の作品にはたくさん登場します。
さらに、引っかかるキーワードをちりばめてくれるので、考察がはかどるのも魅力です。例を挙げると、「むらさきのスカートの女専用シート」の存在や、子供たちがむらさきのスカートの女にタッチする遊び、「黄色いカーディガンの女」という発言など。
私は、これらを「『わたし』の目的がむらさきのスカートの女になること」の根拠ととらえました。
また、「わたし」の修理費の支払いやホテルの備品の喪失、むらさきのスカートの女と小学生の交流は、バザー事件へとつながっていきます。
一見素通りしてしまいそうな出来事・ワードですが、よくよく考えてみると、それらが関連し合って線になり、面になり、立体になるのです。こうした楽しみを読者に与えてくれるところも、今村作品のポイントだと思います。
でも、まだ解決していない要素もあります。たとえば、「むらさきのスカートの女専用シート」の名付け親は誰か問題。
「うちの近所の公園には、『むらさきのスカートの女専用シート』と名付けられたベンチまである」と本文にはあるのですが、これは誰に名付けられたものなのか分からないのです。
もしかしたら、このベンチを「むらさきのスカートの女専用シート」と名付けたのは「わたし」で、他の人はそういう風に認識していないのではないか……などと考えてしまいます。
本文とは関係ないですが、カバー画のスカートが紫色ではないのも気になるところです。4本の脚はそれぞれ「わたし」とむらさきのスカートの女で、同じ布を被っているから同化している・区別がないという理解で良いのだと思われます。
しかし、なぜスカートが白地に黒のドットなのか。この疑問はまだ解けていないので、今後の課題にしたいと思います。
最後に
今回は、今村夏子『むらさきのスカートの女』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
平常と狂気のあわいというか、一歩先は崖、というような異様な危険さにあふれている奇妙な小説です。ぜひ読んでみて下さい!