子供の頃、『蜘蛛の糸』に親しんだ人は多いのではないでしょうか?「教訓めいた事言ってるようだけど、結局何が言いたいのか分からない!」と思った人もいるかもしれません。
今回は、芥川龍之介『蜘蛛の糸』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『蜘蛛の糸』の作品概要
著者 | 芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) |
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発表年 | 1918年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 業(カルマ) |
『蜘蛛の糸』は、芥川が初めて児童向けに書いた作品です。地獄に落ちた犍陀多(かんだた)という男に釈迦が手を差し伸べるストーリーです。
映画化やアニメ化(「まんが日本昔ばなし」など)がされていて、芥川の息子で作曲家の芥川也寸志(あくたがわ やすし)によってバレエにもなっています。Kindle版は無料¥0で読むことができます。
『蜘蛛の糸』の絵本は、偕成社から出版されています。迫力がある怖い絵ですが、極彩色の画面が美しく、手元に置いておきたくなる1冊です。
著者:芥川龍之介について
- 夏目漱石に『鼻』を評価され、学生にして文壇デビュー
- 堀辰雄と出会い、弟子として可愛がった
- 35歳で自殺
- 菊池寛は、芥川の死後「芥川賞」を設立
芥川龍之介は、東大在学中に夏目漱石に『鼻』を絶賛され、華々しくデビューしました。芥川は作家の室生犀星(むろう さいせい)から堀辰雄を紹介され、堀の面倒を見ます。堀は、芥川を実父のように慕いました。
しかし晩年は精神を病み、睡眠薬等の薬物を乱用して35歳で自殺してしまいます。
芥川とは学生時代からの友人で、文藝春秋社を設立した菊池寛は、芥川の死後「芥川龍之介賞」を設立しました。芥川の死は、上からの啓蒙をコンセプトとする近代文学の終焉(しゅうえん)と語られることが多いです。
『蜘蛛の糸』のあらすじ
ある日、蓮池のほとりを散歩していたお釈迦様は、池の中を覗き込みました。そこからは、血の池でもがいている犍陀多の姿が見えます。
お釈迦様は、犍陀多が生前に蜘蛛を助けたことを思い出し、地獄から救い出してやろうと考えて、地獄に蜘蛛の糸を垂らしました。
登場人物紹介
お釈迦様(おしゃかさま)
地獄の底でもがく犍陀多を助けようと、蜘蛛の糸を垂らす人物。
犍陀多(かんだた)
地獄で苦しむ元大泥棒。お釈迦様が垂らしてくれた蜘蛛の糸を伝って、地獄からの脱出を試みる。
『蜘蛛の糸』の内容
この先、芥川龍之介『蜘蛛の糸』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
慈悲の心の必要性
犍陀多、見出される
極楽の蓮池のふちを歩いていたお釈迦様は、ふと池の中を覗き込みました。その下は地獄の底になっていて、お釈迦様はそこに犍陀多という男がいるのを見つけます。
彼は生前大泥棒でしたが、唯一善いことをしました。それは、一匹の蜘蛛を殺さずに生かしたことでした。犍陀多の善行を思い出したお釈迦様は、できることなら地獄から救い出してやろうと考え、近くにあった蜘蛛の糸を地獄の底に下ろします。
悲劇
地獄の底の血の池で浮き沈みしていた犍陀多は、数々の仕打ちに疲れ果てて、無気力にもがいていました。そんな時、蜘蛛の糸が犍陀多のもとに垂れてきたため、犍陀多はそれをのぼっていきます。
しばらくのぼっていくと、犍陀多はくたびれたため一休みしました。ふと下を見ると、眼下には地獄の光景が広がっていて、犍陀多は地獄からもうすぐ抜け出せるという喜びを噛みしめます。
しかし、犍陀多は蜘蛛の糸の下の方で罪人が行列を作って上ってきているのに気が付きます。
糸が切れて地獄に落ちることを恐れた犍陀多は、罪人たちに向かって「この蜘蛛の糸は俺のものだ。下りろ。下りろ」と大声で言いました。その途端、蜘蛛の糸がぷつりと切れて犍陀多は地獄の底へ落ちて行きました。
極楽にて
一部始終を見ていたお釈迦様は、悲しそうな顔をしてまたぶらぶらと歩き始めました。犍陀多が再び地獄に落ちても、極楽では同じように時間が流れていくのです。
『蜘蛛の糸』の解説
蜘蛛を殺さないことは善なのか?
犍陀多は、蜘蛛を「踏みつぶそうとしたけど、かわいそうだから止めた」だけであって、「蜘蛛の窮地を救ってあげた」わけではありません。
蜘蛛は害虫ではありませんし、蜘蛛を見つけたからすぐに殺すというロジックは成り立たないと思います。蜘蛛は釈迦の使いとされていますし、そんな無益な殺生をするメリットがありません。
犍陀多が生き物を殺すことに喜びを感じる人物なら納得できますが、そんなつまらない殺生を避けただけで善人になるのなら、地獄にも犍陀多と同じような理由で善人とみなされる人がいるのでは?と思ってしまいました。
絵本でそのシーンを確認したところ、単に「犍陀多は蜘蛛を助けた」という風に記載がされていました。ここだけを読むと、「瀕死だったり、動けなくなっていたりした蜘蛛の命を救った」という風に受け取れますが、実際はそうではありません。
では、それを踏まえて犍陀多が良いことをしたという風に判断された理由は何だったのでしょうか?以下は、私の考察です。
犍陀多は、人を殺したり家に火をつけたりする大泥棒です。そして、深い林に入ったとの記述があり、犍陀多はそこで蜘蛛を助けました。
このことから、泥棒をして追われた犍陀多は林に逃げ、「極限状態の犍陀多は空腹のあまり見つけた蜘蛛を食べようとしますが、かわいそうになって逃がしてやった」とは考えられないでしょうか。
少し無理があるような気もしますが、それだったら一応つじつまが合います。食料にするために殺そうとしたが、慈悲の心から思いとどまったため、釈迦に善人だと認定されたというのが私の見解です。
犍陀多はどうしたら助かっていた?
犍陀多は、他の地獄の罪人に「この糸は俺のものだ。下りろ下りろ」と言った途端、再び地獄に落ちてしまいました。では、犍陀多はどうしたら極楽まで行けたのでしょうか?
結論から言うと、犍陀多は他の罪人を気にせずにそのまま上っていれば助かったのではないかと私は考えます。
犍陀多は、糸をのぼってくる罪人たちを見て、「糸が切れるのではないか」と考えました。しかし、通常蜘蛛の糸は触れたらすぐに切れてしまうほど脆いものであるため、本来であれば犍陀多の体重でさえ支えることはできません。
そこで、犍陀多の体に持ちこたえている時点で普通の糸ではないことは想像でき、蜘蛛の糸の耐久性は問題ないことが分かります。
そもそも、釈迦は犍陀多を助けようと思って蜘蛛の糸垂らしましたし、蜘蛛の糸も「隠れるように」犍陀多のもとに垂れてきました。
釈迦は犍陀多のことしか見ていないので、もし犍陀多が極楽にたどり着いたら、釈迦はおまけでついてきた他の罪人を容赦なく地獄に落とすはずです。釈迦が許可していないのに極楽に入ることは、不法侵入に当たるからです。
犍陀多は上ってくる罪人たちを無視してひたすら糸を上り続けていたら、極楽にたどり着けたのではないかと思います。
誰が糸を切った?
糸を切ったのは釈迦ではありません。釈迦は糸を垂らした後は一部始終を観察していただけだからです。
「悲しそうな御顔をなさ」ったとあることや、そのあともすぐに気持ちを切り替えてまた散歩を始めることからも、釈迦がただの傍観者である事が分かります。
もしかしたら、犍陀多が上り始めてから落ちるまでを一種のエンターテインメントとして見ていたのかもしれません。
よって、糸を切ったのは蜘蛛か、もしくは糸に意志があるなら糸自身だと考えられます。ある研究者は、「犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら」という1文に注目しています。
この文の主語は犍陀多なので、述語は「からませた」になるはずです。しかし「からみながら」とあることから、糸が意思を持って絡ませようとしている事が分かります。
その論文では、「犍陀多が糸を上れたのは、糸と手の意志するところの共同の結果である」と結論付けていました。
つまり、犍陀多に上ろうとする意志があり、糸に上らせようとする意志があって、それが一致したからこそ犍陀多は蜘蛛の糸を上ることができた、ということです。
この論は、「犍陀多はどうしたら助かっていた?」の「他の罪人は、犍陀多が極楽に着いたら地獄に落とされる」という考えを裏付けてくれます。糸と気持ちを同じくする犍陀多だけが、糸に上ることができるからです。
そのあと犍陀多はどうなった?
始め、「死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり」いた犍陀多は、地獄に再び落ちてから「血の池の底へ石のように沈んでしまいま」した。
ここでは、「蛙」という生物から「石」という無生物に例えが変化したことに注目したいです。つまり、極楽へ行ける大チャンスを逃してしまった犍陀多は、本当の意味で死んでしまったのです。
また、石は水に沈んだら浮かんでは来ないので、犍陀多は永遠に血の池から逃げることができなくなってしまったのでしょう。
『蜘蛛の糸』の感想
天使と悪魔
犍陀多は大泥棒ではありましたが、蜘蛛を助ける心を持っていた人物です。このことから、1人の人間の中に善と悪が共存していると言えます。
よくアニメで、例えば財布を拾った主人公の中で「財布を交番に届けよう」天使が言う一方で、「財布をもらってしまえ」と悪魔がささやくシーンがありますが、イメージとしてはそういう感じです。
善人とか悪人とかいう判断は、その天使と悪魔のどっちが強いかということによるのではないでしょうか?つまり、天使9割・悪魔1割の人は善人と呼ばれ、天使1割・悪魔9割の人は悪人と呼ばれるということです。
善人の中にも1割の悪魔がいて、悪人の中にも1割の天使がいるので、善人が100%善人で、悪人が100%悪人であることはありえないのです。
犯罪者を擁護するつもりはありませんが、ニュースや新聞で報道される犯罪者に対して、先入観で犯罪者=悪い人と決めつけるのはナンセンスだと感じてしまいます。
「その人がどういうバックグラウンドを持っているのか」「どういう状況だったのか」というところにまで目を向ける必要があると思うからです。
そうすると、「被害者も悪かった」「法が整備されていないのが問題だ」という風に、もっと大きく物事を捉えることができると思うのです。
『羅生門』の解説でも同じようなことを書きましたが、この「人間は善悪の両方を内在させた生き物だ」という考えは、芥川作品を理解するためのキーワードなのだと思いました。そしてこれこそが、『蜘蛛の糸』の教訓なのではないでしょうか。
『蜘蛛の糸』の英語訳
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『蜘蛛の糸』の英語訳は、講談社から出ている文庫で確認できます。TOEIC470点レベルの文章です。『蜘蛛の糸』だけでなく、『杜子春』『トロッコ』『鼻』を含む計8篇が収録されています。
最後に
今回は、芥川龍之介『蜘蛛の糸』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
NHKの「おはなしのくに」で放映されていたり、何度も絵本で読んだりした作品を大学生になってから分析するのは、非常に感慨深かったです。
個人的に好きなアニメ「地獄少女」のボスキャラも、そういえば巨大な蜘蛛だったなぁと思いました。そもそも「地獄」という概念も仏教特有のものなので、まだまだそういう視点からの考察の余地がありそうです。
幼い頃には誰しもが読んだ『蜘蛛の糸』をこれを機に改めて読み返してみると、何か新しい発見があるかもしれません。ぜひ読んでみてください!
↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。