父の特殊な癖を引き継ぐ主人公が、理性で制御しきれない爆発的な欲に苦しめられる『共喰い』。
今回は、田中慎弥『共喰い』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
『共喰い』の作品概要
著者 | 田中慎弥(たなか しんや) |
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発表年 | 2011年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 父と子 |
『共喰い』は、2011年に文芸雑誌『すばる』(10月号)で発表された田中慎弥の短編小説です。
『共喰い』のあらすじ
登場人物紹介
篠垣遠馬(しのがき とおま)
17歳の高校生。円の息子。父譲りの暴力性に悩まされる。
篠垣仁子(しのがき じんこ)
60歳近い遠馬の生みの親。魚屋を営んでいる。戦時中に空襲に遭って右腕の手首から先を無くし、義肢を付けて仕事をしている
篠垣円(しのがき まどか)
50歳前後の遠馬の父親。性交時に相手を殴る癖がある。
千種(ちぐさ)
遠馬とは別の高校に通っている18歳の少女。遠馬と交際している。
琴子(ことこ)
海に近い飲み屋街の店に勤めている35歳。父が飲み屋に通って口説き、1年ほど前から篠垣家に住むようになった。
『共喰い』の内容
この先、田中慎弥『共喰い』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
川辺という場所
昭和63年の7月、17歳の誕生日を迎えた篠垣遠馬は、学校の授業が終わってから付き合っている会田千種の家へ向かいます。
途中で魚屋の前を通りかかった遠馬は、生みの親の仁子さんと目が合いました。戦争で右腕の手首から先を失った仁子さんは、義手を使いながら魚をおろしていました。仁子さんは遠馬の父・円の女性関係の多さと異常性癖を理由に篠垣の家を出て魚屋を営んでいます。
遠馬の住む川辺という地域は、戦後の開発からかなり置いてゆかれた場所です。まだ下水道の設備が完全で無いため汚物が川に流れ込み、川は悪臭を放ちます。
この川を隔てて西側に仁子さんの魚屋が住み、東側に遠馬とその父親、父親が口説いて一年ほど一緒に住んでいる琴子さんが住む家がありました。
千種の家で、千種の両親が帰ってくる前に行為に及びます。「こんなんでええんかなあ」「気持ちようなかったん?」「親父と俺、やっぱりおんなじなんやなあって」「馬あ君は殴ったりせんわあね」「殴ってから気がついても遅いやろうがっちゃ」
2人はこんな会話を交わしました。
秘めた暴力性
その晩、朝5時に目を覚ました遠馬は、階段の上から豆電球がともっている座敷を覗きます。大きくて厚みのある琴子さんに父が埋め込まれ、止まることなく動いていました。
そして、父は琴子さんの髪を掴んで反対の手で琴子さんの頬を張り、両手で首を締め上げます。それを見た遠馬は、今度はいつ見られるのだろうかと思いました。
夏休みに入ってから、遠馬は父に「夕方川で鰻を釣るから先に行っちょけ」と言われました。下水が流れ込む川で捕った鰻を食べるのは父だけです。
夜になっても父が来ないため魚屋の前で釣りを始めた遠馬は、一匹の鰻を釣り上げました。釘の両端が肉を突き破り、片方の顔が引き裂かれています。半ば崩れた鰻の頭を見た遠馬は、下腹部に熱が集中しているのを感じます。
帰宅して風呂場で水を浴びても熱は冷め切らず、性器を握りながら崩れた鰻の頭と千種と琴子さんが交互に入れ替わるように思い出し、最後に父に首を絞められる琴子さんが目の前に現れて、終わりました。
後日、釣った鰻を魚屋に取りに行く前に遠馬は千種の家に寄り、会うなり抱きつくより先に服を脱がせようとします。激しく抵抗する千種に対して、遠馬は「下に入れさすんがいやなんやったら、口でしてみい」と千種の頭を掴んで下半身に引き寄せようとしました。
千種が身をよじって逃れようとすると遠馬が首を絞める恰好になり、一気に力を込めたところで話しました。
その後鰻を受け取るために訪れた魚屋で、仁子は父・円そっくりな遠馬の異常な目つきを指摘します。
渾沌
8月に入ってからも、遠馬は千種と仲直りできずにいました。そして琴子さんが父の子を身籠ったことで、父は琴子さんを殴らなくなります。さらに、琴子さんは遠馬に川辺を出ていく決心をしたことを告げました。
その後も変わらず時間は過ぎていきますが、遠馬は時間の感覚があいまいになり、千種の家の周りを歩いたり、崩れた鰻の頭を見たくて竿を出したりして過ごします。そして、欲に任せて魚屋の向かいにいるアパートの老売春婦を買いました。
二日間行われる夏祭りが近づくと川辺一帯が浮き立ち始めます。祭りでは表彰式や踊りが行われたり、花火が上がったり屋台が出たりします。
地域の子どもに連れられて祭りの準備が行われている社にやってきた遠馬は、同じく子どもたちに連れてこられた千種と再会します。千種は、「あさってここで待っちょるけえ」と言いました。
終止符
翌日、琴子さんはいつものように仕事に行く前に「ほんなら、馬あ君」と言って家を出て行きます。
そして祭り当日、遠馬が父に「まだなんも知らんやろ。琴子さん、もう戻ってこんぞ」と告げました。父は、下駄を履いて大雨のなか家を飛び出しました。
しばらくすると、子どもたちが傘も差さずに玄関に駆け込んできました。「馬あ君のお父さんがあ」「千種ちゃんがあ」「ごめえん。止められなかったんよお」子どもたちは口々に叫びます。
千種の「あさってここで待っちょるけえ」という言葉を思い出した遠馬は走って社に向かいます。社の扉の中には、口の端が裂け、鼻血を出し、頬に爪の跡がついている千種の姿がありました。千種に暴行した父を殺す決意をした遠馬は、仁子さんの元に向かいます。
無惨な姿にされた千種を見た仁子は、遠馬に「あんたはここにおり。守っちゃり」と言いながら小さい包丁を持って出ていきました。仁子さんと父は橋の上で取っ組み合い、やがて父の叫び声が聞こえてきました。
翌朝、川に浮かんでいた円の遺体に仁子さんの義手が突き刺さっていたため、仁子さんは警察に逮捕されます。父親の遺体は親族に引き取られ、小さな葬式が行われました。
仁子さんへの面会は起訴されてからようやく許可されました。ガラスの向こうの仁子さんは、特に痩せておらず、「もう店仕舞いじゃわ」と言う仁子に対して、遠馬は「俺が継いじゃる」と言うことができませんでした。
閉経後に再び生理が来るようになった仁子さんですが、差し入れは特に必要ない、と言うのでした。
『共喰い』の解説
神格化される仁子
暴力による血や血縁、経血など『共喰い』は血の気配で満たされています。
暴力による血は、この物語では性欲を想起させます。遠馬の欲が暴走した時に赤犬が吠えますが、この「赤」は血を連想させます。さらに射精を「血を発射」と表現しているところからも、血と情欲の関連を見ることができます。
また「(自分は)あの親父の息子なんぞ」などの遠馬の発言や、性欲に支配された遠馬が父と同じたぎる血を感じさせる目をするところなどに血縁が意識されます。さらに川辺の人々が生理中に鳥居をくぐらないエピソードからは、ケガレとしての経血が描かれています。
そして物語の最後の一文が「生理用品は拘置所が出してくれるのだろう、と遠馬は思った」というものであり、やはり血の印象が強く残ります。
毎日社に参る仁子は、「祭りが近いから汚いものに触らないように」と遠馬に注意するなど、ひときわ神を畏怖していることが読み取れますが、それは同じ地域に住む人の発言からも分かります。
遠馬と千種の間を取り持ったり、千種の危機を遠馬に知らせたり、神童のような存在である子供たちのうちの1人の発言を下記に引用します。
「うちの母さんが、仁子さんはすごい、言うちょった。仁子さんがお社から警察の人と一緒に降りてくるとこ、母さん、見ちょったんじゃ。そん時仁子さん、石段の下まで来て、鳥居を潜らんで、よけたんて。ほやけえ仁子さんはすごい女なんじゃって」
上記は、仁子が円を刺して社にいたところを警察に見つかって連行される場面です。罪を犯した後に鳥居をくぐらない仁子の行動に圧倒されている様子が読み取れます。
また仁子は社で警察に「社で(円と)出会うて始まったんです」と言っていたり、その他の語りでも祭の最中に遠馬の父親である円と出会ったことが強調されており、仁子と社の縁の深さが窺えます。
さらに仁子が円を刺すシーンで、仁子は円と別れてからは一度も渡ろうとしなかった橋を渡りました。篠垣家と魚屋は川を隔てており、その境界に橋があります。この境界としての橋と同じ意味を持つのが、神社の太鼓橋です。
神社に設置される太鼓橋は、参道から社殿の途中にあることが多く、人間の世界と神の世界をつないでいます。つまり、人間の世界と神の世界の境界に太鼓橋が存在しているのです。
篠垣家と魚屋、あちらとこちらを隔てる橋の真ん中で仁子と円が対面することは、意味があることのように思われますし、神社の太鼓橋を連想して神の存在が意識されます。
また「橋の形が雨で消え、川の上に直接影が浮んでいた」と描写されており、仁子が浮いて見えたことで人間ではない神懸かった存在のように描かれました。
そして極め付けは、閉経していた仁子に再び生理が来たことです。子供の「やまっちょったもんが、また始まったんじゃって」という発言から、仁子に再び生理が来るようになったことが示されます。
仁子の神を尊敬する気持ちや社との縁の深さ、「浮いて見える」不思議な描写、閉経後に生理が再開するという通常ではありえない現象が仁子の身に起きたことから、彼女が神に近い存在として描かれていると言えます。
『共喰い』の感想
似て非なる親子
父・円と遠馬はよく似ており、作中にも遠馬が円の子であることが強く意識される描写が数多くあります。
「親父と俺、やっぱりおんなじなんやなあって。とにかくやるのが好きなだけなんやなあって」という遠馬の発言の通り、遠馬は老いた売春婦にも父親の女である琴子にも見境なく欲情します。
また琴子に「(円と)箸持ってご飯食べる時の恰好やら、口の動かし方やらはそっくりなそいから」と言われたり、仁子さんに「(円と)おんなじ目、しちょる言うそよ」と恐ろしげな目を指摘されたり、遠馬自身も声が父親に似ている気がして怖くなったりします。
遠馬は行為中に機械的に動く様子も父にそっくりだと自覚しており、声や姿かたちなどの身体的な特徴から仕草、行動、性質まであらゆる面で似ていることが示されています。
唯一の違いは、「殴ることを肯定しているか、否定しているか」だと思いました。
遠馬がアパートの売春婦を買ったことを知った父親は、「全然怒っちょらん。ええぞええぞ、どんどんやったらええ。お前も、ばっしばっしやりながらじゃろうが。よかったんじゃろうが」と言いました。
遠馬の行動に怒るよりむしろ嬉しそうで、父親は可愛い息子が自分と同じ癖を持っている、殴る快感を共有していることを喜んでいるように感じました。一方で遠馬は暴力を否定しており、理性と抑えきれない自身の凶暴性に苦しめられます。
このような描写から、父と遠馬は表裏一体と言えそうです。下記に、円に強姦された千種と遠馬の会話を引用します。
「俺がやったんじゃ。俺が来とったら、なんもなかった」
「あんたのせいやないけえ」
「俺のせいやない。俺自身がやったんじゃ、ほやけえ、俺が、殺す」
一見意味の通らない文章ですが、感情を父親、理性を遠馬とし、父親が遠馬の暴力性の化身と考えたらどうでしょうか。
「俺(遠馬の暴力性の化身としての父親)がやったんじゃ。俺(遠馬)が来とったら、なんもなかった」
「あんたのせいやないけえ」
「俺(遠馬)のせいやない。俺自身(遠馬の暴力性の化身としての父親)がやったんじゃ、ほやけえ、俺(遠馬)が、(遠馬の暴力性の化身としての父親)殺す」
これらのことから、遠馬は父親のもとから逃げることを強く望んでいるものの父親とは切っても切れない関係にあり、父親が死んでその肉体は無くなっても遠馬の精神に生き続けるのではないか、と思いました。
最後に
今回は、田中慎弥『共喰い』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!