菊池寛(きくちかん)という人物の名前を聞いたことがある人はどのくらいいるでしょうか?彼は小説家であり、実業家でもある非常に優れた人物です。そして、あの芥川龍之介を親友でありました。
今回は、そんな菊池寛の意外なエピソードや、文藝春秋社の成功の理由を解説します。
プロフィール
厳しい経済環境
菊池寛(本名:きくちひろし)は、1888年に七人兄弟の三男として香川県高松市に生まれました。菊地家はもともと儒学者の家柄でしたが、明治維新に伴って家計が危うくなりました。
そこで、高等教育を受けられるのは長男だけになってしまったので、菊池は東京高等師範学校(学校の先生になるための学校。成績優秀者は無償で入学できる)に進みました。
しかし、普通の高等教育を受けたかった菊池は、学校を休んで芝居を見に行ったりと不真面目だったため、退学処分になってしまいます。
一高時代
その後は文学を志し、一高(当時のトップクラスの高等教育を受けられる学校。一高を出たら、現在の東大である東京帝大入学するのがエリートがたどる道筋だった)に合格しました。
同級生には、第三次、第四次新思潮という同人誌を出した芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、成瀬正一らがいました。しかし順調に卒業するかと思われた矢先、友人・佐野文夫の窃盗の罪を着ることになり、一高を退学します。
菊池が退学処分になった理由を知った成瀬正一の父は、彼の男気に感動して、援助して京大に入学させます。そんな時、芥川龍之介から声をかけられて、第三次新思潮の同人になりました。
しかし、第四時新思潮で芥川が夏目漱石に評価される中、菊池は認められるに至りませんでした。
小説家・戯曲家として活躍
京大を卒業した菊池は、新聞社に入社します。同じころに東京帝大を卒業した芥川は、海軍の英語教師をしていて、月給60円ほどでした。一方で菊池は、多忙を極めながら25円の月給を得ていました。
25円は、当時人が暮らすには十分な金額でした。しかし、菊池は実家から月10円を仕送りするように言われていたので、実質15円で生活しなければなりませんでした。
この生活から抜け出すにはお金持ちの娘と結婚するしかないと考えた菊池は、同郷の令嬢と結婚します。それによって金銭的に余裕ができた菊池は、創作活動に力を入れるようになりました。
そして『無名作家の日記』『忠直卿行状記』『恩讐の彼方に』などを発表して、文壇での地位を確立します。また戯曲家(演劇の台本を書く人)としても注目され、『藤十郎の恋』『敵討以上』『父帰る』などの作品が上演されました。
社会貢献
1923年、菊池は個人経営の出版社・文藝春秋社を設立し、雑誌「文藝春秋」を創刊します。この雑誌は現在に至るまで刊行されている雑誌です。
文藝春秋社は次々に新しい雑誌を刊行したり、企画を行ったりして、文芸や文化の普及に貢献しました。
さらに菊池は文学者の社会的地位の向上や福祉についての関心が高く、日本文藝家協会を組織して、著作権擁護の運動を進めました。
また日本文学振興会を創立して、雑誌「文藝春秋」売り上げに貢献し、菊池本人との親交があった芥川龍之介と直木三十五の功績を称えて、芥川龍之介賞と直木三十五賞を設けました。
これらは俗に「芥川賞」「直木賞」と呼ばれますが、現在でも権威のある文学賞として毎年行われています。
これらの事業の成功で得た資産で多くの文学者(川端康成、横光利一、小林秀雄など)を援助し、文学の発展に尽力しました。そして持病の狭心症を発症して、1948年に60歳で亡くなりました。
代表作
『無名作家の日記』
ページ数 | 213ページ |
---|---|
出版年 | 1988年 |
出版社 | 岩波書店 |
『恩讐の彼方に』
ページ数 | 290ページ |
---|---|
出版年 | 1983年 |
出版社 | 旺文社 |
文藝春秋社成功の理由
大衆を意識
「一般受けするか否か」。これは菊池が非常に大切にしたものの考え方です。彼の書く作品は、簡潔で単純です。これは、文学にそれほど興味がない人にも受けることを狙って書かれたからです。
このように、菊池は創作の際にも大衆に売れることを考えていたので、文藝春秋社が発行した雑誌にはその風潮が色濃く出ています。
まずは値段です。雑誌「文藝春秋」は、当時10銭で売られていました。同じ頃に売られていた「中央公論」という雑誌が1円で売られていたのを考えると、いかに低価格なのかが分かります(100銭=1円)。
今の文芸雑誌の相場は1000円前後なので、それに換算すると1/10の100円ということになります。
さらに、新しい企画が豊富だったことも挙げられます。雑誌の企画として作家の対談が行われるのは、今では当たり前です。しかしそれを始めたのは「文藝春秋」が最初だったと言われています。
また作家の講演会も実施しました。「会いに行けるアイドル」ならぬ「会いに行ける作家」というところでしょうか。誌上でしか存在を確認できなかった作家に会えるということは、画期的なこととして受け入れられました。
このように、菊池が通俗性を意識して文学と向き合ったのは、彼が貧乏な暮らしを知っているからなのではないかと思います。だからこそ、大衆受けを意識して、文学に娯楽性や読み物としての性質が必要だと考えたのです。
エピソード
芥川との熱い友情
一高で出会って以来、2人は晩年まで親友でした。芥川は自殺する前、菊池に会いに2度家を訪れています(菊池は「文藝春秋」の編集で忙しかったので、結局2回とも会えませんでした)。それだけではなく、芥川は妻のみならず菊池宛にも遺書を残しました。
芥川が自殺した後、菊池は芥川の全集を出版することに奔走します。社会保障制度がしっかりしていなかった時代なので、稼ぎ手がいなくなった途端、残された家族は生活苦に陥ってしまうからです。
菊池は芥川の遺族のために、全集を出して印税を稼ぎました。出版社の社長らしい援助の仕方ですね。
どっちもいけた
菊池はバイセクシャルだったと言われています。学生時代には4歳下の男子生徒に、女性が使う言葉で手紙を送っていました。
また一高時代には、友人の佐野文夫の窃盗の罪を着て、卒業間際に退学処分になりました。その理由は、菊池と佐野は恋愛関係にあったからだと推測されます。さらに佐野の両親は教育者で、菊池が罪を着なければ佐野家は破滅すると泣きつかれたからだと言われています。
菊池が、自分の将来を投げ打ってまで友人の罪を着た理由が分からず、「あまりにも義理が堅すぎる」と感じた人もいるかもしれません。しかしこのように考えると納得できますね。
さらに親友の芥川について、「彼について考えると、色女のように赤い唇を最初に思い出す」と書いたことにも、菊池の好みが表れています。
男性同士の友情は、しばしば過剰なほど熱く描かれることがありますし、男性社会の文壇(文学者のグループ)において男色が起こるのは、それほど違和感があることではないです。
最後に
菊池寛は、小説家としてだけでなくクリエイティブな実業家としても成功を収め、文学の普及に貢献した偉大な人物です。作品だけでなく、現在にも残る組織や賞を設けて、現在にまで影響を与えています。
菊池の強い思いを受け継いでいるからこそ、今の文藝春秋社の繁栄があるのだと思います。