『風花(かざはな)』は、主人公が夫に浮気されてからの2年間の出来事がつづられている物語です。
今回は、川上弘美『風花』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『風花』の作品概要
著者 | 川上弘美(かわかみ ひろみ) |
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発表年 | 2004年~2007年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 長編小説 |
テーマ | 結婚 |
『風花』は、2004年~2007年に文芸雑誌『すばる』(2004年1月号~2007年10月号)で連載された川上弘美の長編小説です。夫に浮気された主人公が、自分の気持ちと向き合いながらゆっくり答えを出していく様子が描かれています。
著者:川上弘美について
- 1958年東京生まれ
- お茶の水女子大学理学部生物学科卒業
- 『蛇を踏む』で芥川賞受賞
- 紫綬褒章受章
川上弘美は、1958年生まれ東京都出身の小説家です。著名な生物学者の父と文学好きの母を持ち、お茶の水女子大学理学部生物学科を卒業後、高校の教員を経て小説家となりました。
1996年に『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞し、その後も中年女性と初老の男性の恋を描いた『センセイの鞄』がベストセラーとなり、数々の文学賞を獲得しました。2019年には、その功績がたたえられて紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章しました。
『風花』のあらすじ
のゆりの夫の卓哉は、里美という女性と浮気をしています。のゆりはそのことを知っていますが、卓哉からは離婚をほのめかされても、のゆりは感情を動かすことなく日々を過ごします。のゆりは時間をかけて自分や卓哉と向き合い、1つの結論を出すのでした。
登場人物紹介
のゆり
33歳。女子大を卒業してから3年間秘書として働き、結婚をするタイミングで辞職して今に至る。
真人(まこと)
のゆりの叔父。中学生と高校生の子供がいる。のゆりと年が近いため、彼女のことをなにかと気にかけている。
卓哉(たくや)
のゆりの夫のシステムエンジニア。里美と不倫している。
里美(さとみ)
卓哉の不倫相手。卓哉と同じ会社で営業をしている、はきはきした女性。
『風花』の内容
この先、川上弘美『風花』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
結婚とはなにか
卓哉の不倫
のゆりの夫の卓哉は、同僚の里美と不倫しています。のゆりは、そのことを匿名の電話で知りました。その日の夜、のゆりはどうしたらいいのかわからず、卓哉に電話があったことを報告しました。卓哉は否定せず、離婚をほのめかします。
次の日に里美から電話がかかってきて、のゆりと里美は直接会うことになりました。里美は、「卓哉のことは好きだが、卓哉とのゆりが離婚することは望んでいない。たとえ離婚しても卓哉と結婚するつもりはない」と、簡潔に告げて去ってしまいました。
その後、のゆりは「もし里美さんと別れてほしいって言ったら、卓ちゃんは別れてくれる」と卓哉に聞きましたが、卓哉は黙ったままでした。結局、卓哉の沈黙が事態を行き詰まらせてしまい、不倫が発覚してから2か月が経ってしまいました。
のゆりと真人
のゆりは、卓哉の不倫のことを知っている叔父の真人と、2人で新花巻の温泉に行きました。宿で食事をしながら、のゆりは「わたしたち、夫婦みたいだね」と真人に言いました。
翌日、会計をするときにお金を出そうとしたのゆりに、真人は「おれ、ゆりちゃんの叔父うえだぜ」と言います。それを聞いた会計の宿の女は、「ご親戚だったんですか」と言ってさもおかしそうに笑いました。
真人は、のゆりに渋谷にある「たかみクリニック」の受付の仕事を紹介しました。たかみクリニックの院長は、真人の店の客なのだと言います。たかみ先生は、40代くらいの美人でした。面接をして、のゆりはそこで働くことになりました。
別れ話
ある日、のゆりは仕事帰りにマンションの下から部屋を見上げて、そこに電気がついているのを見つけます。卓哉はいつも夜遅くに帰ってきますが、今日は早かったのだと思い、のゆりは胸を高鳴らせながらドアを開けました。
そこには誰もおらず、のゆりは自分が電気を消し忘れただけだと気づきました。そのときは卓哉と里美の関係を知って5ヶ月が経ったころでしたが、のゆりはそこで初めて「悲しい」と思うのでした。
そして、「離婚したほうがいいのかもしれない」とのゆりは思います。ある夜、卓哉は「離婚、するなら、いつでもする」とのゆりに告げました。そしてたかみクリニックで働き始めて半年が経った年末、要領の悪いのゆりは受付をクビになりました。
節分の少し前、のゆりは里美と食事をすることになりました。里美は、自身が妊娠していたことをのゆりに明かしました。そして、『もう日下さん(卓哉)と別れたい』とくりかえします。
その後のゆりは卓哉に誘われ、割烹料理屋に行きました。そこで、のゆりは卓哉に「別れてほしい」と告げられます。それを聞いて、のゆりははっきり「別れたくない」と自覚しました。
本当の恋愛
夏のある日、のゆりは大学時代の先輩の唐沢さんから沖縄旅行に誘われました。唐沢さんは元夫が浮気性だったと話しました。
「ご主人の浮気って、実際のところ、許すことなんてなんてできるんですか」とのゆりが聞くと、唐沢さんは「条件次第ね」と言いました。唐沢さんは、「わたしの夫も、浮気じゃない本気の恋愛、しているの」とつぶやきました。
お土産選びをしていたのゆりは、唐沢さんから「旦那さんじゃなくても、ほかの好きな男にプレゼントすればいいじゃない」と言われました。「好きな人なんて、いないもの」「唐沢さんは、今は恋人、いるの」「いるわよ」2人はそんな会話をしました。
沖縄から帰ったのゆりは、卓哉とちゃんと話す決意をします。しかし、卓哉はのゆりが何を言ってもあいまいな返事しか返しませんでした。
決意
7月半ばに、卓哉の転勤が決まりました。のゆりは卓哉について姫路に行きましたが、そこで栗原という女性から電話がかかってきます。栗原は、のゆりに卓哉と里美の関係を密告した人物でした。
栗原は、のゆりに卓哉と別れてほしいと言います。栗原は、卓哉が里美と不倫する前に彼と関係をもっていたのでした。
姫路に来てから1か月後、のゆりは卓哉の家を出て初めての1人暮らしを始めます。その後、卓哉はのゆりに「栗原と里美のことはもう終わった」と告げました。卓哉が家に来たこともありましたが、のゆりは冷たく追い返しました。
それから、のゆりは卓哉の福島出張について行くことになります。そして、卓哉はのゆりに「すまない。ほんとに、そう思ってるんだ」と言いました。
のゆりは、卓哉の腕をとってほほえみかけます。卓哉の肩に顔をうずめながら、「きちんと別れよう」と思うのでした。
姫路に着いたのゆりは、「別れよう、わたしたち」と卓哉に告げます。卓哉は涙を流し、のゆりも静かに泣きました。のゆりは「おなか、すいた」「ラーメンでも食べて帰ろ」と言って横断歩道を渡ります。
クラクションを鳴らされてから、のゆりは赤信号を渡っていたことに気づきました。しかし、のゆりは止まらずに横断歩道を渡り切ります。横断歩道の向こう側で、卓哉はまぶしそうにのゆりを見ました。
『風花』の解説
「浮気じゃない本気の恋愛」の意味
のゆりの先輩の唐沢さんは、浮気癖のあった元夫について「わたしの夫も、浮気じゃない本気の恋愛、しているの」と言っていました。ここでは、その言葉の真意を考えたいと思います。
そのために、明治以前の結婚観について考えたいと思います。現在は恋愛結婚が一般的ですが、当時は結婚が家同士の契約という意識が強く、結婚をしている当事者同士に愛がめばえることはまれでした。
ではどこで自由に恋愛ができるかというと、それは家庭の外です。結婚という契約を交わした相手と家庭を築いたうえで、家庭の外で別の人と恋愛をすること(不倫)は倫理的にOKでした。
無理やりの結婚に愛がないのは当然のことだから、むしろ家庭の外で交際することの方が純粋な恋愛だとみなされていたのです。
唐沢さんがどういう経緯で結婚したのかはわかりませんが、きっと唐沢さんにとって結婚は契約だったのだと思います。だからこそ、夫の浮気をそれほど気にせず、自身も夫以外の人との恋愛を楽しんでいるのです。
唐沢さんは、浮気をふしだらなものととらえるのではなく、むしろ純度の高い恋愛だとしていたのでした。
リアルさの追求
『風花』は、時間が止まっているようで、つかみどころのない不思議な物語だと思いました。2年の月日をかけてのゆりがゆっくり結論を出していく過程が、丁寧に描かれています。
漫画やドラマでは「浮気する=別れる」というのが一般的ですが、現実はそんなにシンプルではありません。
実際、のゆりは浮気が発覚しても卓哉のことが好きだと自覚し、離れられずにいました。そして、卓哉への愛を持ちながらも別れることを決意するという、矛盾した決断をしました。
人間の思考は単純でなく、のゆりのように矛盾を含んでいる複雑なものだと思います。劇的ではなく、境界が分からないようなグラデーションで変わっていくのです。
この物語は13個の章で構成されていて、それぞれに「風花」「夏の雨」「大寒」「立春」というように季節を感じるタイトルが付けられています。
夏の日差しが少しずつ勢いを無くしていき、風に秋の匂いが混ざるようになって、夜に虫が鳴いているのに気づき、そこでようやく「秋が来たんだな」と感じるように、季節の緩やかな移ろいとのゆりの心の動きをリンクさせているのだと思いました。
しかし、この作品はただのんびりと進むわけではなく、ときどき生々しい場面が差し込まれています。そして、読者に嫌でも現実を突きつけてきます。
のゆりが「(卓哉と)違う部屋で寝てしまったら取り返しがつかなくなりそう」と思ったり、卓哉のシャワーの音を聞いたのゆりが、「私の入った後のお風呂には浸かりたくないんだ」と思うところがあまりにもリアルで、苦々しさがこみあげてきました。
変化に富まない構成と、このように挟みこまれる現実的なシーンが、作品を立体体的に見せているんだと感じました。
食事
この小説には、これでもかというほど食事のシーンが描きこまれています。この食事のシーンには、「高級か庶民的か」「のゆりのおなかが空いているかどうか」の2つの観点から見ることができます。
のゆりは、卓哉と里美の関係を知ってから空腹を覚えずにいました。しかし、里美はのゆりを高級中華料理屋につれだし、「お腹すいてない」というのゆりに料理を食べさせました。
また、卓哉はのゆりと話をするとき、ふぐなどの単価の高い店を選びます。そこでも、のゆりは「お腹すいてない」と繰り返します。
一方で、のゆりが「お腹すいた」と感じるとき、彼女は庶民的な食べ物を思い浮かべます。長ネギがたっぷり入った玉子焼きや、卓哉と福島で食べたおでん、ラーメンがそれに当たります。
音楽を聴くとその当時のことを思い出すように、食事にもそうした効果はあると思います。この作品での食事は、そのときの場面を思い出すものとして機能しているのではないでしょうか。
里美との関係が発覚したあと、のゆりは卓哉や里美と格式の高い店で食事をします。あとから思い出したとき、料理の美味しさよりもその窮屈さが思い出されます(第一、話をするために食事をしているため、料理を味わう心理的な余裕はないはずです)。
つまり、卓哉や里美との食事は、のゆりにとって居心地の悪いものとして記憶されています。
ところが、福島でのおでん屋に入ったのゆりは、完全にリラックスしていました。また「ラーメンでも食べて帰ろ」と言ったのゆりの様子は、非常にすがすがしいです。
このように、気張らずに素の自分でいられる瞬間が、のゆりにとって心地よいと感じるシチュエーションです。
この作品において食事のシーンは、当事者どうしが形だけの会話をしているのか、しっかり向き合っているのかを表す指標になっていると思いました。
『風花』の感想
結婚とは
『風花』は、「結婚とは何か」を考えさせる小説だと思いました。作中では、のゆりが「ねえ、夫婦って、ふつうはどういうふうなの」「結婚て、へんなの」と発言しており、彼女が結婚を理解しきれていないことが示されています。
たしかに、結婚は不思議な制度だと思います。書類を書いて役所に提出すれば、血がつながっていないにもかかわらず、家族というグループになることができ、控除等でさまざまな優遇を受けることができます。
逆にその契約を破棄(離婚)すれば、また赤の他人に戻ります。自然に形成されるものではなく、法で規定されている不自然な関係です。
また、新花巻の温泉に真人と行ったのゆりは、「わたしたち、夫婦みたいだね」と言いました。叔父と姪の関係ですが、2人は年が近いのではたからみると夫婦です。
一方で、のゆりと卓哉が福島に行ったときに出会ったタクシーの運転手は、のゆりと卓哉の関係を知りたがっていました。2人は夫婦だけど、見ただけじゃわからないからです。
このことから、「見た目で夫婦と判断する基準はどこにもない=夫婦はあやうい関係」というのが読み取れます。結婚は、両者の間にかならずしも確かな関係を与えてくれるものではないようです。
また、のゆりは「母/妻」と「女」の間で揺れていたのではないかと思いました。のゆりは、スーパーの袋を大量に自転車にかけて、後ろに子供を乗せて力強く自転車をこぐどこかのお母さんを部屋の窓から見ました。
また、浮気性の真人が「ツマ」に追い出されたと言っていたのを聞きました。「母/妻」は子供を産んで所帯じみてるけど、強い存在としてのゆりの目に移っています。しかし、のゆりにはそんな強さはありません。
そして、のゆりは「女」として卓哉に飽きられてしまいました。結婚生活において、のゆりは何者でもなく、アイデンティティを見失った状態だったのではないでしょうか?そんなのゆりが、結婚に意味を見出せないのは当然のことだと思います。
『風花』を読んで、結婚がいかに形式的なものであるかがわかりました。そのうえで、「結婚しなければ、もっとちゃんと(卓哉を)好きになっていたのに」というのゆりの言葉がとてもせつなく感じられました。
のゆりの成長/卓哉の心
のゆりは、非正規の社員としてのんびり働きながら、日々を何となく過ごしている女性です。キャリアにこだわるわけでもなく、目標に向かって頑張るわけでもなく、周りに流されながらふわふわと生きています。
のゆりは、作中で自分の行動を「遅い」と評したことがありましたが、全くその通りです。鈍くていろいろな感情をその場で表現することができず、淡々としています。卓哉の不倫を知ってから5ヶ月経って、ようやく「悲しい」と思ったほどです。
しかし、結論を出すまでにのゆりは大きく成長しました。人生で初めての1人暮らしをしたり、卓哉を冷たく追い返したり、のらりくらりとしていたのゆりには徐々に軸ができ始めます。
それを象徴しているのは、最後の横断歩道を渡るシーンです。以前ののゆりだったら、赤信号で渡っていることに気づいた時点で、その場に立ち止まってしまうでしょう。
しかし軸を手に入れたのゆりは、「このまま渡っちゃえばいいんだ」と思って走って無理やり渡り切ります。
この大胆さ、思い切りの良さは初期ののゆりにはないものです。そして、卓哉がのゆりに求めていたのは、こういう「軸」なのではないかと思いました。
卓哉は、夢や目標を持つことなくのんびりと生きるのゆりに、張り合いのなさを感じていたのだと思います。
一方、里美は営業で仕事ができそうなキャリアウーマンです。栗原の職種は明かされていませんが、会社という組織に属して仕事をしている時点で、のゆりより1枚うわてです。
だからこそ、そういう軸のあるしっかりした女性を求めて、卓哉は浮気をしたのだと思います。
ところが、思いがけずのゆりが軸を持って魅力的に見えてきたため、最終的に卓哉はのゆりのところに戻ろうとしました(もちろん、里美に振られたからというのもあります)。
また、卓哉の気持ちがのゆりに戻ったのは、自分を好きでいてくれるのはのゆりだけだからと気づいたからかもしれません。栗原や里美を関係を持ったことを知っても、のゆりは卓哉から離れようとしませんでした。
その一途さのありがたみに、卓哉は里美に振られてからやっと気づけたのだと思います。振られてから舞い戻るなんて虫がよすぎると思いましたが、のゆりの別れ話に涙するくらい、卓哉の気持ちはのゆりに戻っていました。
のゆりがもっと早く卓哉と別居していれば、卓哉がもっと早く里美と別れていれば、2人の関係は修復できたのになと思いました。
最後に
今回は、川上弘美『風花』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
不倫小説なのに、ドロドロした感じはなくて読後はむしろすっきりする作品です。ぜひ読んでみて下さい!