純文学の書評

【森鷗外】『阿部一族』のあらすじと内容解説・感想|感想文のヒント付き

『阿部一族』には、「殉死」をテーマに武士の葛藤や一族の悲劇が描かれています。また、『阿部茶事談』を下敷きにした史実に忠実な作品です。

今回は、森鷗外『阿部一族』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!

『阿部一族』の作品概要

著者森鷗外(もり おうがい)
発表年1913年
発表形態雑誌掲載
ジャンル中編小説
テーマ殉死

『阿部一族』は、1913年1月に文芸雑誌『中央公論』で発表された森鷗外の中編小説です。17世紀中ごろに、大名である細川忠利が病死した際に行われた数々の殉死が描かれています。Kindle版は無料¥0で読むことができます。

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岩波文庫の『阿部一族』です。鷗外の初期歴史小説の代表作である『興津弥五右衛門の遺書』『佐橋甚五郎』も収録されています。斎藤茂吉の解説も必見です。

著者:森鷗外について

  • 夏目漱石のライバル
  • 樋口一葉の評価を高めた
  • 文豪の中で、社会的地位が最も高い人物(陸軍軍医総監)

医者の家に生まれ、東大を首席で卒業した鷗外は、軍医として働きます。スーパーエリートの鷗外は、国から認められてドイツに留学しました。このときの経験は、ドイツ三部作(『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』)の題材になっています。

『阿部一族』のあらすじ

寛永18年の春、肥後の藩主である細川忠利が病死しました。その死をきっかけに家臣たちは殉死をします。殉死は、主君から許可を得た者しか行えない名誉ある行為です。

忠利は18人の家臣の殉死を許しましたが、19人目の殉死者が出ました。忠利の許可を得ずに殉死をしたのは、阿部弥一右衛門という人物です。この殉死が契機となり、阿部一族には悲劇が起こるのでした。

冒頭文紹介

『阿部一族』は、以下の一文からはじまります。

従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、よそよりは早く咲く領地肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。

大名である細川忠利が、参勤交代で江戸に向かおうとしているときに病に侵されるところから始まります。この忠利の死が、本作のテーマである殉死と大きくかかわってきます。

登場人物紹介

細川忠利(ほそかわ ただとし)

徳川三代将軍家光に使える大名。56歳で病死した。

細川光尚(ほそかわ みつひさ)

忠利の嫡子。忠利の後を継ぐ。

阿部弥一右衛門(あべ やいちえもん)

忠利に仕えていた優秀な武士。抜け目がないため忠利からは毛嫌いされており、殉死を許されなかった。にもかかわらず殉死を遂げたため、のちに阿部一族は不遇な扱いを受けることとなる。

阿部権兵衛(あべ ごんべえ)

弥一右衛門の嫡子。父・弥一右衛門の死後、領地を削られるという屈辱的な処遇を受ける。

阿部弥五兵衛(あべ やごべえ)

弥一右衛門の次男。

柄本又七郎(つかもと またしちろう)

討手と戦う決意をした阿部一族が立てこもった、屋敷の隣に住んでいる。阿部一族とは懇意にしていた。

『阿部一族』の内容

この先、森鷗外『阿部一族』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。

一言で言うと

殉死をめぐる武士のあれこれ

許されない殉死

寛永18年の春、肥後の藩主である細川忠利が病死しました。その死をきっかけに家臣たちは殉死をします。当主が生きている間に許しをもらわないと、殉死をすることはできません。許可を得ない殉死は犬死と同じです。

忠利から許可をもらった18人の武士は、忠利の死後次々と殉死を遂げました。そんななか、許しを得ずに殉死を行った人物がいます。阿部弥一右衛門という武士です。

弥一右衛門は忠利の生前から殉死を申し出ていましたが、忠利は決してそれを許すことはありませんでした。なぜなら、非の打ち所がない弥一右衛門のことを忠利はあまり良く思っていなかったからです。

 

許しが出なかったため弥一右衛門は殉死をできずにいましたが、あるときから弥一右衛門は「殉死の許しが出なかったことを良いことに生き延びている」と言われるようになりました。

弥一右衛門は、腹を切っても許可を得ていないために犬死と言われ、殉死をしなければ「のうのうと生きている」と評価されてしまうのです。そして弥一右衛門は、子供たちを集めて腹を切ることを告げ、殉死をしました。

不遇

忠利の息子である光尚の家督相続が済み、殉死した18人の家の者たちには相応の待遇がなされます。長男はそのまま父の跡を継ぐことができ、未亡人や老父母には扶持(ふち。米や金)が与えられました。

しかし、許しを得ない殉死を遂げた阿部弥一右衛門の長男・権兵衛は、父の跡を継ぐことができませんでした。加えて、弥一右衛門の領地は兄弟で分割されました。つまり、権兵衛の領地が減ったことで、権兵衛の肩身が狭くなってしまったのです。

武士の生きざま

そして忠利の一周忌、事件は起こります。焼香を終えた権兵衛は、髻(もとどり。髪を束ねた部分)を切って忠利の位牌の前に置いたのです(出家を意味する行為)。

領地を分割された権兵衛は、忠利にも父親にも面目が立たないと思い、武士を捨てる決意をしたのでした。この権兵衛の無礼な行為に腹を立てた光尚は、権兵衛を殺してしまいます。

不満が頂点に達した阿部一族は、細川側の討手と戦って死ぬことにしました。戦いにそなえて老人や女は自殺し、幼い子供を刺し殺しました。

 

阿部一族が立てこもっている屋敷の隣には、柄本又七郎という武士が住んでいました。又七郎は阿部一族と非常に親しくしており、特に阿部の次男の弥五兵衛とは槍のライバルでした。

しかしいくら親しい間柄とはいえ、上に逆らっている阿部一族の味方をすることはできません。又七郎は「情は情、義は義である」と言い聞かせ、討手が阿部一族を襲う日の前夜に、阿部家を囲う竹垣の結び縄をすべて切りました。

一族滅亡

そしてついに討手が阿部家に乗り込み、又七郎も前の晩に縄を切っておいた竹垣を踏み越えて阿部家に駆け込みます。そして、又七郎は得意の槍で弥五兵衛の胸板を突きました。その後、弥五兵衛は切腹をし、阿部一族は全員が息耐えました。

阿部一族の死骸は、川で洗われてその傷が吟味されました。その中でも特に弥五兵衛の傷は立派であったため、その傷をつけた又七郎は賞賛されました。

『阿部一族』の解説

19人の物語

『阿部一族』には数々の人物が登場します。細川忠利が亡くなってから火葬するまでの19人の殉死が描かれているというのが大筋ですが、それぞれの人物にそれぞれのストーリーがあるため、少々分かりにくいと感じた人もいるのではないでしょうか?

ここでは、内容を時系列でわかりやすく整理します。

2羽の鷹

忠利が愛していた有明と明石という鷹は、殉死をしたと解釈されています。この2羽の鷹は、忠利が火葬された日、その寺の井戸の中に飛び込んで死んだのでした。

内藤長十郎元続(ないとうちょうじゅうろうもとつぐ)

長十郎は、忠利に日夜仕えて彼の看病をしていた17歳の武士です。長十郎はまだ若く、これと言った功績を残していませんでしたが、忠利は長十郎を気にかけていました。

長十郎は、以前酒を飲んで無礼を働いてしまったことがありました。そんなとき忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑います。このことから、長十郎はこの忠利の恩に報いなければならないと思うようになりました。

こうした経緯があり、長十郎は忠利に殉死の意志を伝え、許可をもらったのでした。

津崎五助長季(つざきごすけながすえ)

五助は、忠利の鷹狩のお供をしていた犬牽(いぬひき。鷹狩用の猟犬を育てるトレーナー)です。

五助は切腹する前、いつも牽(ひ)いていた犬の前におにぎりを差し出します。そして、「これからも行きたいなら握り飯を食え。殉死したいなら食うな」と言いました。犬は握り飯を食べなかったため、五助は犬を殺します。

五助が殉死を決めたとき、家臣たちは「殉死の許可を得たのは名誉なことだが、犬牽の五助は殉死しなくても…(身分が低い人は殉死する必要はない)」と言いますが、五助はかまわず切腹しました。

阿部弥一右衛門

忠信が殉死を許可した18人のほかに殉死をしたのは、阿部弥一右衛門です。弥一右衛門は完璧すぎる人物で、非のうちどころがありません。しかしその完全無欠さゆえ可愛げがないため、忠利は弥一右衛門を好いていませんでした。

そのため弥一右衛門が殉死を申し出ても、忠利はそれを許しません。そしてそのまま忠利は亡くなってしまいました。弥一右衛門は忠利の側に仕えていたため、周囲の人は「弥一右衛門は当然殉死するだろう」と思います。

しかし、忠利の許可を得ていない弥一右衛門は殉死したくてもできません。そんな弥一右衛門を見た人々は、「たとえ許しが無くても殉死すべきだ」と陰口を言い始めるのでした。

弥一右衛門は、決まりに背いて殉死しても、忠利にしたがって殉死しなくても、どちらにしても後ろ指を指されることになってしまいました。結局、弥一右衛門は殉死を選びました。

殉死のいろいろ

誰が決めたわけでもない、暗黙のルールとしての殉死。『阿部一族』では、殉死にまつわる人々の心情が語られています。

以下では、「殉死をする側」と「殉死を許す側」の心理に焦点を当てます。

殉死をする側の気持ち

ここでは、長十郎の心理描写に着目します。以下に引用するのは、長十郎が忠利に殉死を許可された後の長十郎の心理描写です。

自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。

長十郎はみずから進んで殉死を申し出ましたが、「しなくてはならぬ」「殉死を余儀なくされる」などの義務的・受動的な発言が見受けられます。その理由は、以下に続く文で明かされます。

もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。

「恐ろしい屈辱」とは、「主君が亡くなったのに生き長らえているなんて(死ぬべきときに死なないなんて)」という世間からの非難のまなざしのことを指していると考えられます。

このことから、長十郎は100%自分の意志で殉死を選んだというよりは、「世間体を気にしてやむを得ず殉死することになった」というニュアンスがあることが読み取れます。

 

また以下では、殉死にまつわる興味深い制度が紹介されています。

そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。

一家を支える大黒柱が死ぬということは、その家の面倒を見てくれる人がいなくなるということです。

しかし引用部からは、殉死した武士の遺族は「主家の優待」を受けられることが分かります。そうした特典があるということも含めて、長十郎は殉死を申し出たのでした。

これらのことを考えると、長十郎は純度100%の忠誠心から殉死を選んだわけでは決してないと言えます。

殉死を許す側の気持ち

殉死する側の気持ちが語られる一方で、忠利の葛藤も描かれています。

もし自分が殉死を許さずにおいて、彼らが生きながらえていたら、どうであろうか。家中一同は彼らを死ぬべきときに死なぬものとし、恩知らずとし、卑怯者としてともに歯よわいせぬであろう。(中略)こう思ってみると、忠利は「許す」と言わずにはいられない。そこで病苦にも増したせつない思いをしながら、忠利は「許す」と言ったのである。

ここでは、殉死をしないことによる悪影響が述べられています。前項で長十郎は「殉死をしなかったら恐ろしい屈辱を受けるに違いない」と危惧(きぐ)していたと述べましたが、忠利も同じことを心配しています。

つまり、自分が許可をしなかったせいで殉死できなかった家臣が、「死ぬべきときに死ななかった卑怯者」という烙印を押されてしまうことを気にしているのです。

しかし、殉死を許すということはそのせいで人の命が失われるということです。だからこそ、忠利は「病苦にも増したせつない思いをしながら」殉死を許可するのです。

 

一方で、以下の引用部では自身の殉死を許可するという行為を正当化しています。

嫡子光尚の周囲にいる少壮者どもから見れば、自分の任用している老成人らは、もういなくてよいのである。邪魔にもなるのである。(中略)自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の怨みをも買っていよう。(中略)殉死を許してやったのは慈悲であったかも知れない。こう思って忠利は多少の慰藉を得たような心持ちになった。

忠利の周りに仕えている家臣は若者から見れば老害であり、いない方が息子(光尚)のためなのではないかと考えたのです。ここでは、殉死を許可することへの理由付けが行われています。

 

以上で見たように、殉死する方だけでなく、それを後押しする方にも葛藤があることが分かりました。

作中では「18人の殉死者」という言葉が強調されますが、ここには「忠利が考えて選び抜いた18人」というニュアンスが含まれているように思われます。

松本 伊瑳子「森鴎外「阿部一族」を読み直す – 日本の男の主体とは (古典を読み直す)」(「言語文化研究叢書(4)」2005年3月)

『阿部一族』の感想

ためらい

『阿部一族』を読む前、殉死は忠誠心の塊みたいな人物か、ある意味洗脳された人が行うものだと思っていました。

それくらいの気持ちでいないと、他人のために命を捨てることなんてできないと思うからです。まして、意識がある状態で自分の腹を自分の手で切りつけるなんて、正気ではありません。

でも『阿部一族』を読んで、当時の武士たちは100%の忠誠心から殉死をしているわけではないのかな?と思いました。

 

とくに長十郎の殉死までの流れを読んでそう思いました。解説でご紹介した通り、長十郎は世間からの圧力に後押しされるように殉死を申し出ました。そういう経緯があってあまり気が進んでいないからか、長十郎は殉死当日だらだらと過ごしています。

こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、鼾をかきだした。女房があとからそっとはいって枕を出して当てさせたとき、長十郎は「ううん」とうなって寝返りをしただけで、また鼾をかき続けている。

のんきなもので、介錯(かいさく。切腹をしたあと、苦しむ時間を少なくするために首を切り落とす人のこと)が家に来るまでの間、長十郎はいびきをかいて昼寝をします。

 

熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして、顔をこっちへ向けている。
「もし、あなた」と女房は呼んだ。
長十郎は目をさまさない。(中略)
「茶漬でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母さまにも申し上げてくれ」
武士はいざというときには飽食はしない。しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。

これから腹を切って死ぬというのに、いやに平和でのんびりした風景です。まぶしい光に背を向けて昼までぬくぬくと眠り、目覚めたら家族で食卓を囲んで茶漬けを食べる。

こうした長十郎の行動は、普段通りに過ごして気持ちを落ち着かせると言う長十郎なりのやり方なのかもしれません。

しかし私は、この場面には「切腹を先延ばしにしたい」という長十郎の気持ちが表れているのではないか?と解釈しました。成人した武士とはいえ、長十郎はまだ17歳です。やはり、死への恐怖はぬぐえなかったのでしょう。

変な語り

許しのない殉死は犬死(無駄死に)というイメージがあったことに驚きました。

切米取りの殉死者はわりに多人数であったが、中にも津崎五助の事蹟は、きわだって面白いから別に書くことにする。

また、引用部は犬牽きの津崎五助の殉死を紹介する一文ですが、「面白い」という言葉が引っかかりました。滑稽という意味に感じられるというか、嘲笑を含んでいるような書き方がされているからです。

このように、感情を出すような語りがなされるのが珍しいと感じました。

 

また余談ですが、今回のみならず鷗外はしばしば死を扱う作家です。『阿部一族』は忠誠心を形にした殉死をテーマとしています。

そのほかにも、安楽死をテーマに『高瀬舟』を執筆していますし、医師だった鷗外ならではの視点だと思いました。

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『阿部一族』の感想文のヒント

  • 『阿部茶事談』との比較
  • 主君と家臣の思惑をそれぞれの立場から整理する

作品を読んだうえで、5W1Hを基本に自分のなりに問いを立て、それに対して自身の考えを述べるというのが、オーソドックスなやり方ではないかと思います。

感想文のヒントは、上に挙げた通りです。

最後に

今回は、森鷗外『阿部一族』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。

青空文庫ぜひ読んでみて下さい!

↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。

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「純文学を身近なものに」がモットーの社会人。谷崎潤一郎と出会ってから食への興味が倍増し、江戸川乱歩と出会ってから推理小説嫌いを克服。将来の夢は本棚に住むこと!
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