直接的なタイトルが興味をそそる『蛇を踏む』。
今回は、川上弘美『蛇を踏む』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『蛇を踏む』の作品概要
著者 | 川上弘美(かわかみ ひろみ) |
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発表年 | 1996年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 中編小説 |
テーマ | 孤独 |
『蛇を踏む』は、1996年に文芸雑誌『文学界』(3月号)で発表された川上弘美の中編小説です。人に変化(へんげ)した蛇が、人間の心の中に入り込む様子が描かれています。
著者:川上弘美について
- 1958年東京生まれ
- お茶の水女子大学理学部生物学科卒業
- 『蛇を踏む』で芥川賞受賞
- 紫綬褒章受章
川上弘美は、1958年生まれ東京都出身の小説家です。お茶の水女子大学理学部生物学科を卒業後、高校の教員を経て小説家となりました。
1996年に『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞し、その後も中年女性と初老の男性の恋を描いた『センセイの鞄』がベストセラーとなり、数々の文学賞を獲得しました。2019年には、その功績がたたえられて紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章しました。
『蛇を踏む』のあらすじ
ある日、サナダヒワ子が踏みつけた蛇は50歳くらいの人間の女に変身し、ヒワ子の部屋に住み着くようになります。蛇は、ヒワ子の母親が健在であるにもかかわらず、 ヒワ子の母親を名乗ります。
そしてその蛇は、ヒワ子をしつこく「蛇の世界」へ誘うのでした。
蛇と同居するうち、ヒワ子は周囲の人も蛇に取りつかれていることに気付きます。ヒワ子は違和感を覚えながらも、人間の世界と蛇の世界でゆれ動きます。
登場人物紹介
サナダヒワ子
女学校の理科の教師を辞めたあと、数珠(じゅず)屋のカナカナ堂で働き始めた。蛇を踏んだことで蛇にとりつかれる。
蛇
ヒワ子が踏んでしまった蛇。ヒワ子の母親を名乗り、50歳くらいの女性の姿でヒワ子の家に居座るようになる。ヒワ子を蛇の世界へ誘う
コスガ
カナカナ堂の店主。
ニシ子
60歳過ぎのコスガの妻。コスガよりも8歳年上。
『蛇を踏む』の内容
この先、川上弘美『蛇を踏む』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
安楽への誘い
蛇女
ヒワ子は、ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまいました。蛇は「踏まれたらおしまいですね」と言って、50歳くらいの女性に変化します。そして、私の家の方へ歩いて行きました。
ヒワ子は数珠を販売するカナカナ堂での勤務を終えた後、家に帰ります。すると部屋は片付いており、50歳くらいの見知らぬ女が座っていました。女はヒワ子の母親だと言い、夕飯を用意したり酒の準備を始めたりします。
食事をしながら会話をしたのち、女は「もう寝るわ」と言って部屋の柱にからまって天井まで登ってしまいました。
誘い
カナカナ堂の店主のコスガさんは、ヒワ子の話を聞いて追い出すことを勧めます。
蛇がヒワ子の家に来てから2週間が経ったころ、コスガさんは「実はうちにも20年以上前から蛇がいる」と明かしました。コスガさんの妻のニシ子についてきたもので、追い出そうとすると不吉なことが起こるのだと言います。
そしてあるときから、蛇はヒワ子に「蛇の世界」に入ることを勧めるようになりました。ヒワ子はあいまいな態度をとって、肯定も否定もしませんでした。
はざま
家に帰ると、部屋中に蛇の気配が充満しています。女の姿はありませんでしたが、引き出しの中からは小さな蛇が何匹も這い出してきて、ヒワ子の耳に入り込みます。ヒワ子は自身が蛇に変身しはじめるのを感じながら、「蛇になどなるまい」と念じます。
そしてついに、「蛇の世界」に行くことに承知しないでいるヒワ子にしびれを切らした蛇は、「もう待てない」と言っていいながら、ヒワ子の首を締めました。ヒワ子が応戦すると、天井から水がしたたってきて部屋は水浸しになります。
やがてヒワ子が住むアパート全体が水に飲まれて流れはじめます。ヒワ子と蛇は濁流に乗りながら争いつづけるのでした。
『蛇を踏む』の解説
蛇という生き物
蛇という生き物は、昔話や民話、説話などで語られることのある生き物です。異類婚姻譚(いるいこんいんたん。人間と人間以外の存在が結婚する説話のこと)で、蛇女房はよく登場するモチーフです。
そういう経緯があり、蛇にはさまざまなイメージがついています。以下では、『蛇を踏む』を読むにあたっての予備知識として役に立つ、蛇の特徴をまとめました。
- 女性を想起させる
- 執念深い
- 水の神の象徴
蛇と女性
蛇女房という言葉からも分かる通り、蛇は女性と結びつく例が多いです。『蛇を踏む』で、蛇が自身がヒワ子の母親だと主張したり、食事を用意するなど母親らしく振る舞うところに、そうした蛇の特性が反映されています。
執念深い
また、蛇はその強い生命力から「執念深い動物」とされています。この性質は、ヒワ子に拒まれても粘り強く蛇の世界に誘い続ける「蛇を踏む」の蛇にも共通する。
余談ですが、太宰治『斜陽』にも蛇が登場します。『斜陽』に登場するかず子は、子供のときに蛇の卵を出来心で焼いてしまったことがあります。この作品では、その母親蛇が執念深くかず子の前に姿を見せる描写があります。これもまた、蛇のしつこさを表しています。
水の神の象徴
蛇は水の神の象徴として信仰されてきた生き物で、実際にそうした文脈で語られた説話が存在しています(俵藤太伝説、道成寺縁起など)。
『蛇を踏む』は、蛇の世界にヒワ子を誘う蛇と、ヒワ子が組み合いをしているうちに洪水が起き、部屋ごと水に押し流される場面で終わりを迎えます。この描写は、蛇と水の関係を踏まえたものだと考えられます。
河守 ひとみ「川上弘美作品を説話から論じる:「北斎」・「龍宮」・「蛇を踏む」(「ゲストハウス (6)」2014年4月)
蛇の世界とは
宇野氏(※参考)は、蛇の世界を一種の宗教や思想ととらえて論を展開しています。「ヒワ子ちゃん蛇の世界はいいわよ、蛇の世界は暖かいわよ」という蛇の言葉から分かるように、蛇の世界は、少なくとも蛇にとっては心地よい場所だということが分かります。
では、蛇の世界とは具体的にどういう場所なのか。キーワードは「孤独」です。
現代社会では個人主義が叫ばれ、個人の自由や独立が尊重されます。一方で、他者とのかかわりが希薄(きはく)になっているのも事実です。他人と壁を作った上で接した方が、自分が傷つかないからです。
その副産物として生じるのが、孤独です。そして壁を感じることのない世界が、蛇の世界なのです。ヒワ子の「蛇と私の間には壁がなかった」という語りや、「蛇の世界は暖かいわよ」という蛇の語りから、蛇の世界は孤独の対義語ととらえることができます。
そこで蛇は、孤独を抱えるヒワ子の前に現れ、一種の思想としての蛇の世界に連れ込もうとしたのでした。
宇野 憲治「「蛇を踏む」論 : だいじだいじぃ~だいじなものはぁ~」(「年報(12)」1997年3月)
蛇の正体
蛇の正体は、最後まで明かされませんでした。自身はヒワ子の母親だと言う一方で、ヒワ子が記憶にないことを語ったりと、とらえどころのない存在です。
河守氏(※参考)は蛇が母親として表れていることに着目し、その「母性的な包容力がヒワ子を誘惑する」としています。
前項で触れたように、ヒワ子は孤独を感じています。そんなヒワ子が母親の無償の愛を求めていたことは想像に難くありません。
河守論では、「ヒワ子は無意識のうちに母を求め、蛇の誘いを断りながらも蛇の世界を望んでおり、蛇はヒワ子の分身として描かれていると捉えることができる」とまとめられています。
河守 ひとみ「川上弘美作品を説話から論じる:「北斎」・「龍宮」・「蛇を踏む」(「ゲストハウス (6)」2014年4月)
『蛇を踏む』の感想
不器用なヒワ子
川上作品に登場する人物は、普通の人とはすこし違うことが多いところがあります。どう違うのかというと、生きるのが絶妙に下手なのです。
川上弘美『センセイの鞄』の語り手のツキコを例に挙げます。ツキコは、付き合っている彼氏の気持ちを汲み取ることができずに彼を女友達に取られてしまったり、水たまりを上手くよけながら歩けなかったりと、なんとも言えない不器用さを持ち合わせています。
ヒワ子にも似たような雰囲気を感じました。以下に引用するのは、ヒワ子が蛇に「なぜ教師を辞めたのか」と聞かれて答えている場面です。
教師に対して生徒が何か求めてくることは少なかったが、求められているような気がしてきて、求められていないことを与えてしまうことが多かった。与えてからほんとうにそれを自分が与えたいのか不明になって、それで消耗した。
勝手に気を回して、勝手に気疲れして、勝手に消耗してしまう。ヒワ子のつたなさが表れています。
また以下には、住職の話を聞きながら蕎麦を上手に食べられないヒワ子が描かれています。
ひとつひとつのものの因縁話を合計三時間にわたって聞かされた。(中略)蕎麦を召し上がれ、のびてしまいますよ、と大黒さんが言っても、切れ目のない話のどこで蕎麦を食べたらいいのかわからなかった。コスガさんはしかし住職の話にふんふん頷きながら。いつの間にか蕎麦をたいらげていた。どうにかしてコスガさんの真似をしようとしたが、私の方の蕎麦はちっとも減らないのであった。
一般的な人が引っかからないところで立ち止まってしまう。普通の人が難なくこなすことをスムーズに行うことができない。
川上作品には、そんな一面を持った人物が登場します。こうした「ちょっとズレた人」がいるからこそ、川上作品特有の浮世離れした幻想的な世界が保たれているのだと思います。
最後に
今回は、川上弘美『蛇を踏む』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
ぜひ読んでみて下さい!