日本における煙草の伝来にまつわる伝説を描いた『煙草と悪魔』。
今回は、芥川龍之介『煙草と悪魔』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!
Contents
『煙草と悪魔』の作品概要
著者 | 芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) |
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発表年 | 1916年 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
ジャンル | 短編小説 |
テーマ | 両面性 |
『煙草と悪魔』は、1916年11月に文芸雑誌『新思潮』で発表された芥川龍之介の短編小説です。芥川のキリシタン物の第一作目とされています。Kindle版は無料¥0で読むことができます。
著者:芥川龍之介について
- 夏目漱石に『鼻』を評価され、学生にして文壇デビュー
- 堀辰雄と出会い、弟子として可愛がった
- 35歳で自殺
- 菊池寛は、芥川の死後「芥川賞」を設立
芥川龍之介は、東大在学中に夏目漱石に『鼻』を絶賛され、華々しくデビューしました。芥川は作家の室生犀星(むろう さいせい)から堀辰雄を紹介され、堀の面倒を見ます。堀は、芥川を実父のように慕いました。
しかし晩年は精神を病み、睡眠薬等の薬物を乱用して35歳で自殺してしまいます。
芥川とは学生時代からの友人で、文藝春秋社を設立した菊池寛は、芥川の死後「芥川龍之介賞」を設立しました。芥川の死は、上からの啓蒙をコンセプトとする近代文学の終焉(しゅうえん)と語られることが多いです。
『煙草と悪魔』のあらすじ
登場人物紹介
悪魔
キリスト教布教のために日本にやって来たフランシス・ザヴイエルに仕える修道士に化け、日本を訪れた。日本にキリスト教徒がおらず誘惑する相手がいない悪魔は、暇つぶしに西洋から持ち込んだある植物の栽培を始める。
牛商人
ある日、悪魔の家の前を通りかかった牛商人。悪魔が育てている植物の名前を当てれば植物を全て手に入れ、外せば肉体と霊魂を悪魔に奪われるという約束をしてしまう。
『煙草と悪魔』の内容
この先、芥川龍之介『煙草と悪魔』の内容を冒頭から結末まで解説しています。ネタバレを含んでいるためご注意ください。
一言で言うと
良い話には必ず裏がある
煙草の伝来
本来日本には無かった植物である煙草がいつ日本にやってきたか定かではなく、歴史家やポルトガル人、スペイン人が持ち込んだと言われており煙草の日本への伝来には諸説あります。
一方伝説として悪魔が煙草を持ち込んだという話があり、筆者はその伝説を書くことにしました。
天文18年、悪魔はフランシス・ザヴイエルに仕える修道士に化けて日本にやって来ました。ところが、フランシス・ザヴイエルが日本に来たばかりで活発な布教が行われておらず、信者がいないため誘惑する相手が1人もいません。
暇つぶしに園芸をやることにした悪魔は、出発前に耳の穴の中に入れてきた植物の種を蒔きました。
悪魔の悪だくみ
数ヶ月後に悪魔が蒔いた種は芽を出し、その夏の末には葉が畑の土を隠すほどになりました。その植物の名前を知っている人は誰もいないため、フランシス上人が悪魔に尋ねても、悪魔はにやにや笑うだけなのでした。
やがて植物が花を咲かせた頃、フランシス上人が伝導のために留守にしている時、1人の牛商人が畑の前を通りかかります。
牛商人が「もし、お上人様、その花は何でございます。」と声をかけると、悪魔は「この名だけは、御気の毒ですが、人には教えられません。」と言いました。
牛商人が胸の十字架を掲げてキリスト教徒になったことを話すと、悪魔は3日の間にこの花の名前を当てることができたら、畑に生えているものを全てあげようと言います。
「では、あたらなかったら、どう致しましょう」と問う牛商人に、悪魔は「あたらなかったら、あなたの体と魂とを、貰いますよ。」と帽子を脱ぎ、牛商人に山羊のような2本の角を見せました。
植物の正体
うっかり悪魔の手に乗ってしまった牛商人は、3日の間夜も寝ずに悪魔の巧みの裏をかく手だてを考えましたが、フランシス上人でさえ知らない植物の名前を突き止めることはできません。
そして3日目の晩、牛商人は牛と共に悪魔の家に忍び込み、牛の尻を叩いて例の畑に追い込みました。痛みのあまり、牛は跳ね上がりながら柵を壊し、畑を踏み荒らします。
するとそれに気づいた悪魔が窓から顔を出し、「この畜生、何だって、己の煙草畑を荒らすのだ」と言いました。その言葉を、陰に隠れて聞いていた牛商人は聞き逃しませんでした。
筆者の解釈
こうして牛商人は煙草という名前を言い当て、畑の煙草を全て手に入れることができました。
作者は、この伝説により深い意味があると考えています。なぜなら、悪魔は牛商人の肉体と霊魂を手に入れることはできなかったものの、その代わりに煙草の普及を実現したからです。つまり、この悪魔の失敗は一方では成功と言えるのです。
その後フランシス上人が家に戻ると、とうとう悪魔はその土地を追われてしまいました。それからやはり修道士の格好をして各地をさまよった悪魔ですが、豊臣徳川時代の禁教令によりやがて日本から完全に姿を消してしまいました。
『煙草と悪魔』の解説
善悪の両面性
悪魔は、牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにする事は出来なかったが、その代わりに、煙草は、洽(あまね)く日本全国に、普及させる事が出来た。して見ると牛商人の救抜(きゅうばつ)が、一面堕落を伴っているように、悪魔の失敗も、一面成功を伴っていはしないだらうか。
牛商人は知恵によって肉体と霊魂を奪われることをまぬがれましたが、図らずも悪魔の賭けに乗ってしまったという点で堕落していると言えます。一方で、悪魔は賭けに失敗しているものの日本での煙草の普及には成功しています。
上記の引用は語り手の考えが述べられている重要な部分ですが、ここで言われているのは「物事には両面性がある」ということです。
煙草においても、当初は薬として伝わり、明治・大正期には薬効と有害性の両方が信じられていました。(参考)
芥川龍之介『羅生門』でもこの両面性は扱われています。誰かの善は誰かの悪で、誰かの悪は誰かの善であり、善悪は受け手の立場、状況、環境、性別……などにによって変わってしまうのです。
高山 さよ子「芥川龍之介『煙草と悪魔』論 : 悪魔のメフィストフェレス性と牛商人の『心虚』」(「論究日本文学 111」2019年12月)
『煙草と悪魔』の感想
つっこみながら読む
気づけば悪魔の状況に想像を膨らませながら『煙草と悪魔』を読んでいて、もし子供の時に読んでいたら今と全く異なる読み方をしていただろうと思いました。
子供のころの私は極めて主観的に物語を読んでおり、主人公と自分を重ねていたため、敵役の気持ちなど考えたことがありませんでした。
しかし今読んでみると、祖国の西洋を離れて独り人間に化けて遠く離れた日本にやって来て、慣れない日本語を話す悪魔の姿を見て、寂しくないのだろうかという感想が浮かんできました。
悪魔は寂しいという感情を持たない生き物かもしれないし、人間と同じ感覚で語るのがそもそも誤っているかもしれませんが、まずそんな感想を抱きました。
そして「まだフランシス・ザヴイエルが、日本へ来たばかりで、伝道も盛にならなければ、切支丹の信者も出来ないので、肝腎(かんじん)の誘惑する相手が、一人もいないと云う事である」とあります。
悪魔はキリシタンでないと誘惑できないことを知らなかったので、この文章は興味深かったです。悪魔自体がキリスト教の文脈で語られる生き物で、同じ文化を共有していなければ話が通じないということでしょうか。前提が抜けていました。
そして、なぜ暇つぶしに園芸を始めようとしたのか。あまりにも呑気な印象を受けて拍子抜けしてしまいました。
「西洋を出る時から、種々雑多な植物の種を、耳の穴の中へ入れて持っている」という用意周到さから、悪魔がもともと園芸をやるつもりだったことが伺えます。
煙草という植物を「フランシス上人でさえ知らない」ということなので、異国の地でのひそかな楽しみとして自分だけで嗜むつもりだったのでしょうか。
「種々雑多な植物の種」とあり煙草以外の植物の種も持っていることが読み取れるため、追放される前に別の植物を日本に移植した可能性があるのではないかと思いました。
また、悪魔が100%の悪ではないことがかいま見れる文章があったので引用します。
丁度水蒸気の多い春の始で、たなびいた霞の底からは、遠くの寺の鐘が、ぼうんと、眠むそうに、響いて来る、(中略)こう云う太平な風物の中にいたのでは、さぞ悪魔も、気が楽だろうと思うと、決してそうではない。
彼は、一度この梵鐘の音を聞くと、聖保羅(さんぽおろ)の寺の鐘を聞いたよりも、一層、不快そうに、顔をしかめて、むしょうに畑を打ち始めた。何故かと云うと、こののんびりした鐘の音を聞いて、この曖々(あいあい)たる日光に浴していると、不思議に、心がゆるんで来る。善をしようと云う気にもならないと同時に、悪を行おうと云う気にもならずにしまう。※傍線:筆者
悪魔は生来「悪」な存在であり、悪事を行うために生きている生き物でそれ以外のことを考えないと思っていましたが、鐘の音で「心がゆるんで来る」とあり、「顔をしかめて、むしょうに畑を打」ってなんとか悪であることを保とうとしている様子が見て取れます。
この悪魔が例外なのか分かりませんが、努めて悪であろうと意識する悪魔が存在することに驚きました。もしかしたら、日本人が描いたからこその性質なのかもしれません。
最後に
今回は、芥川龍之介『煙草と悪魔』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。
青空文庫で読むことができるので、ぜひ読んでみて下さい!