近代の文学史は、大きく分けて明治・大正・昭和のパートに分けることができます。明治時代には、西洋の文化が流入したり、大正時代にはそれが浸透したり、昭和には第二次世界大戦があったりと、時代によって雰囲気は異なります。
当然、小説も昔から同じようなものが書かれているわけではなく、時代とともに変化していきます。そのため、自分が好きな小説家が生きた時代や、好きな小説の流派を理解することは、作品を読む上でとても重要です。
今回は、日本近代文学史のまとめ・本・作家をご紹介します!
明治
明治初期
開国に伴って、西洋文明が流れ込んできた時代です。西洋文明の特徴は、功利主義・実用主義です。この文化の受容に大きな役割を果たしたのが、啓蒙家の福沢諭吉・加藤弘之・西周(にし あまね)です。
福沢諭吉は、『学問のすゝめ』で「和歌(実用的でないもの)を学ぶ暇があったら、袋の縫い方を学べ」と言っています。ここから、西洋の実用主義を推し進めている様子が見て取れます。
しかし、そうした真面目で実用的な文学観に対抗した人たちもいます。その代表は、仮名垣魯文(かながき ろぶん)です。江戸時代の読み物は、ダジャレやゴシップなど非常に俗っぽいもので、明治初期の知識人たちが提唱したような真面目さは少しもありません。
そういう読み物は戯作(げさく)と呼ばれていましたが、仮名垣魯文は戯作のような面白さを加えた作品を書きます。十返舎一九『東海道中膝栗毛』のパロディ・『西洋道中膝栗毛』や、西洋かぶれの日本人を風刺した『安愚楽鍋(あぐらなべ)』は、彼の代表作です。
翻訳小説・政治小説
実用主義を推し進める啓蒙家たちは、小説に対して冷たい態度を取っていましたが、明治10年頃に西洋のSFや恋愛小説が翻訳され始めます。
同時に、日本語と英語の差を埋めるために、日本語自体を変えていこうという機運が高まりました。これは、言文一致運動に繋がります。政治小説は、自由民権運動を背景に、民権思想を浸透させるために書かれました。
坪内逍遥(つぼうち しょうよう)
坪内逍遥『小説神髄(しょうせつしんずい)』(明治18~19年)から、日本近代小説が始まったとする人もいるくらい、重要な人物です。啓蒙家たちの態度からも分かるように、小説は「不要なもの」「役に立たないもの」と低く見られていました。
そこで、逍遥はそれまでの戯作とは一線を画すものとして、小説を芸術の一ジャンルとしました。戯作は、人物の行動や言動を面白おかしく書いたものですが、そこには心情が一切出てきません。
昔話を想像すると分かりやすいと思います。例えば、『桃太郎』には桃の中でどんぶらこと揺られる桃太郎が、「揺られて酔いそう」と思っているとは書かれていません。桃太郎が、どこで・なにをしたかという話の筋だけが書かれています。
逍遥は、これでは小説は芸術になりえないと言ったのです。小説が芸術になるためには、「人間の心理」を描かなければならないと主張しました。
ところが、理論は完璧ですが、逍遥はそれをうまく実践することができませんでした。逍遥は江戸時代に生まれて、子供のころから戯作に親しんでいたため、彼の作品にはどうしても戯作っぽさが残ってしまうのでした。逍遥の理論を上手く実践したのは、以下に挙げる二葉亭四迷です。
ちなみに、このころ欧米ではロマン主義から自然主義、ロマンスからノベルへの転換が起こっていました。これらは、明治末期に日本に輸入されます。
二葉亭四迷(ふたばてい しめい)
逍遥の理論を批判的に受容し、実践に移したのは二葉亭四迷です。彼は、代表作『浮雲(うきぐも)』で主人公の心理を描きました。
理論を提出したけど、実践できなかったのが逍遥で、理論を完璧に理解していたわけではないけど、実践できたのは二葉亭と覚えると良いと思います。
二葉亭四迷『浮雲』
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発表年 | 1887年~1889年 |
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カテゴリ | 長編小説 |
ジャンル | 恋愛 |
明治中期
このころ、書き言葉と話し言葉は一致していませんでした。今でも、書き言葉と言葉は完全に一致しているわけではないですが、意味が分からないほどかけ離れているというわけではありません。
この頃の作家は、漢文体・雅文体(古文のような文章)・口語体を混ぜながら、新しい文章を模索しました。
森鷗外
石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。(『舞姫』)
「口語体で文章を書くのは、読者に対して失礼なのでは?」「口語体で書いても、文章にならないのでは?」という疑問があり、当時の作家は言文一致に慎重でした。
森鷗外もそのうちの1人で、『舞姫』の冒頭では独自の雅文体を作る努力がされている事が分かります。
雅文は、主語がなくても良いことになっています。『源氏物語』には、主語が省略されている文章は本当に多いです。しかし、西洋の文章には必ず主語がなくてはいけません。
この日本語と英語のギャップを埋めるため、『舞姫』の冒頭では「石炭をば」という主語を入れることで、英語に寄せた雅文体を作る実験がなされました。
文壇の形成
文壇(ぶんだん)とは、作家や評論家、雑誌編集長、出版社編集者など、文学に関わる人たちの社会のことです。楽壇(音楽業界)や画壇(美術業界)の文学バージョンです。
逍遥と四迷のあと、尾崎紅葉(おざき こうよう)は明治18年に文学グループ硯友社(けんゆうしゃ)を結成します。これは文壇形成のきっかけとなり、将来有望な作家たちが集まって養われ、巣立っていきました。
このように、文壇は交友関係、師弟関係、取引関係を形成する重要なコミュニティとなりました。
樋口一葉
樋口一葉は、雑誌「文学界」に作品を発表した人物です。「文学界」は、浪漫(ロマン)主義文学の拠点となった雑誌です。
25歳で亡くなった一葉は、「奇蹟の14か月」と呼ばれる期間に名作を次々と発表しました。明治期の文学は、「現実と非現実」をいかに混ぜるかということに注目されます。
逍遥も、四迷も、鷗外も「作者の理想と現実を写し取ることの関係」について論じました。一葉も、リアルな現実とそこからにじみ出る非現実へのあこがれを、小説で描いています。樋口一葉については、以下の記事をご参照ください。
明治後期
自然主義の輸入
明治40年頃、西洋から自然主義が入って来ます。このころ、イギリス留学から帰ってきた漱石は英文学者の道を断念して小説家としてデビューします。また、軍の医者という極めて高い地位に就いていた森鷗外も、この時期に文壇に復帰しました。
自然主義については、以下の記事をご参照ください。
大正
自然主義が主流だったのは、明治40年~43年頃までの短期間でした。その後、反自然主義として耽美派・白樺派・新思潮派が活動を始めます。この三派と、三派に押されながらも続く自然主義が、大正期の文壇をけん引しました。
自然主義と反自然主義
耽美(たんび)派
北原白秋(きたはら はくしゅう)は、「パンの会」という芸術サロンを発足させました。彼らは、日常を見たままに描く写実主義ではなく、異国情緒を求めました(隅田川を、フランスのセーヌ川に見立てたエピソードが象徴的です)。
「パンの会」は、耽美派の拠点となりました。その後、森鷗外と上田敏(うえだ びん)の支援により、明治42年に「スバル」という雑誌が創刊され、明治43年に永井荷風(ながい かふう)が慶応大学で「三田文学」という雑誌を創刊しました。耽美派は、退廃や悪の中の美に注目しました。
白樺派
「白樺」は、明治43年に学習院大学出身者が中心となって作った雑誌です。悲惨な人生の暴露をする自然主義は、学習院に通う生粋のお坊ちゃまには受け入れられませんでした。そこで、白樺派の作家たちは、自然主義に対抗するように自己肯定をしました。
新思潮(新理智・新技巧)派
「新思潮」は、東大の作家志望の学生による雑誌です。小山内薫(おさない かおる)が出した第一次、谷崎潤一郎が出した第二次、芥川や菊池寛を輩出した第四次が有名です。
最初にテーマを決めてから、小説を展開するテーマ小説や、古典を題材にした小説など、入念な構想のもとのフィクションを目指しました。
自然主義は、作家の実人生をありのままに書くので、事実を加工したり、脚色を加えてはいけません。しかし、新思潮派は物語を作りこんで徹底的にフィクションを構築するので、その点で自然主義とは違います。
新思潮派の作家である芥川龍之介は、自然主義から派生した私小説(作家の生活を赤裸々に語る小説)に異を唱えて、実際の生活から距離を置こうとしました。
そうした傾向は、平安時代を舞台にした『羅生門』『地獄変』、キリシタンものの『奉教人の死』に表れています(時代が書かれた当時とはかけ離れていたり、宗教が絡んでいたりと、普通の日常とは異なっています)。
大正期の自然主義
反自然主義が出てきても、自然主義が消滅したわけではありません。広津和郎(ひろつ かずお)、葛西善蔵(かさい ぜんぞう)、谷崎精二(たにざき せいじ)らによって、雑誌「奇蹟」をはじめとして続きました。
昭和
昭和初期
大正12年に関東大震災が起こり、多くの作家は「いかに自由に生きるか」と考えるようになりました。 これは、心境小説に繋がります。また、ソビエト文化とアメリカ文化が本格的に流入し、マルキシズムとモダニズムが柱となりました。
心境小説、プロレタリア文学、モダニズム文学が、この時期の中心となった文学です。これらは、明治・大正の「上からの啓蒙」というコンセプトとは全く異なります。
心境小説
明治43年~大正9年頃まで、「人格を作り上げる」という価値観が文壇を支配していました。昭和に入り、「作り上げる」という部分に注目された結果、私小説よりも純粋な心境小説が出てきました。志賀直哉『城(き)の崎にて』『焚火』は、心境小説の代表です。
志賀直哉『城の崎にて』
発表年 | 1917年 |
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カテゴリ | 短編小説 |
ジャンル | ‐ |
発病しそうな主人公が、身の回りの小動物を観察し、生と死にはそれほど差がないと悟る小説です。
プロレタリア文学
大正10年に創刊され、左翼文学の拠点となった雑誌「種蒔(ま)く人」や、その後継「文芸戦線」、労働者でなくブルジョワジーによる「戦旗」を中心に、プロレタリア文学は発展しました。
新感覚派
マルキシズムと同様、関東大震災後の文学に影響を与えたのは、モダニズムです。モダニズムには、既存の概念を壊すという前衛的な雰囲気があります。
当時、日本文学で伝統的なもの・定番となっていたのは、自然主義を含むリアリズムです。新感覚派には、そうした凝り固まった既存のものを乗り越えようとする動きがあります。
人間の価値を落とし、人間以外の物や動物を主語にする「擬人法」は、新感覚派の大きな特徴です。その象徴となっているのは、横光利一『頭ならびに腹』の冒頭部「特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」という一文です。
背景には、予定調和的な秩序を破壊しようとするフランスのシューレアリスムや、形式の破壊を目指すチューリヒのダダイズムがあります。さらに、このころ大衆の間に広がり始めた「映画」の影響を受けているのも、新感覚派の特徴です。
昭和中期
無頼派
『斜陽』『人間失格』の太宰治、『白痴』の坂口安吾、『世相』の織田作之助、『焼跡のイエス』の石川淳、『火の鳥』の伊藤整が、無頼派作家に含まれます。「私は無頼派(リベルタン)です。束縛に反抗します」という太宰の言葉に由来します。
戦後の混乱の中、様々な権力に反抗するデカダンス的な雰囲気が特徴です。
戦後派
戦前、左翼運動の挫折を経験した作家たちが担い手です。「死を前にした、極限状態の生」がテーマです。
代表作家は、『死霊』の埴谷雄高、『青年の環』の野間宏、『深夜の酒宴』の椎名麟三、『桜島』の梅崎春生です。
昭和後期
日本が高度経済成長期を迎え、戦後が収束していく時期に当たります。
社会派推理小説
それまでの探偵小説は、江戸川乱歩に代表されるようなマニアックな謎解きや、幻想的でやや現実性に欠けるものが主流でした。
それとは違い、探偵小説に社会性を取り入れ、現実味を持たせたのが、松本清張(まつもと せいちょう)です。『或る「小倉日記」伝』『点と線』で爆発的なブームとなりました。
その後も、『霧と影』の水上勉(みなかみ つとむ)らによって発展していきます。こうした小説は、「社会派推理小説」と名づけられました。
最後に
今回は、日本近代文学史のまとめ・本・作家をご紹介しました。
流派を理解するには、その時期に書かれた作品を読んで雰囲気をつかむのが一番早いと思うので、ぜひ今回ご紹介した作品を読んでみて下さい!
中村光夫「日本の近代小説」(岩波書店 1954年9月)
中村光夫「日本の現代小説」(岩波書店 1968年4月)