皆さんは、「大衆文学と純文学の違いを説明して」と言われたとき、どのように答えますか?おそらく「大衆文学は読みやすくて、純文学は難しい」というのが真っ先に浮かぶと思います。その感覚は間違っていませんが、主観的で少し説得力に欠けますよね。
もっと理にかなった説明ができるように、この記事では純文学と大衆文学の違いを3つに分けて比較します。この記事を読み終わる頃には、大衆文学と純文学の違いがはっきり分かるようになると思います。
「純文学はどういう風に難しいのか」「読みやすさってなんだろう」ということを、考えながら読んでみて下さい。今回は、大衆文学と純文学の違いを解説します!
違いを一言で言うと
娯楽か芸術か
大衆文学と純文学の3つの違い
両者の違いは「娯楽か芸術か」「内容か美しさか」「売れるか売れないか」という3つに分けられます。以下で詳しく解説します。
①娯楽か芸術か
大衆文学は娯楽という位置づけです。息抜きに楽しむエンターテインメントと言うと分かりやすいと思います。作家で言うと、東野圭吾さんや湊かなえさん、朝井リョウさんなどが挙げられます。アニメ化や映画化の影響で馴染み深く、読者が多いのが特徴です。
反対に、純文学は芸術です。芸術とは、美しさを表現することに重きを置いた創作のことです。作家で言うと太宰治や夏目漱石などが挙げられます。現代の作家だと小川洋子さんや村上春樹さんなどです。純文学作品は芸術という特性上、比較的読者が少ないのが特徴です。
もっと分かりやすい基準は、文学賞です。直木賞は大衆文学作品を選考対象にする賞で、芥川賞は純文学作品を選考対象にする賞です。つまり、直木賞を受賞した作品は大衆文学作品で、芥川賞を受賞した作品は純文学作品ということになります。
②内容か美しさか
大衆文学は娯楽という性質上、内容の面白さを重視します。人を楽しませることが目的なので、起承転結で構成されていて、非常に分かりやすいことが特徴です。読者をストーリーに集中させるために、簡単かつシンプルな言葉で書かれています。
逆に純文学は、芸術なので文章そのものの美しさを重視します。「文章の美しさ」と言われても、どういうものかよく分かりませんよね。例えば、声に出した時の語感の良さや漢字とひらがなのバランスなどのことを指したりします。
「これが美しい文章か!」と実感できる例を挙げます。泉鏡花の『高野聖』から、僧と女が川辺に佇む場面を引用しました。
すっぱり裸体になってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう。(中略)それから両方の肩から、背、横腹、臀、さらさら水をかけてはさすってくれる。(中略)婦人の温気か、手で洗ってくれる水がいい工合に身に染みる、もっとも質の佳い水は柔かじゃそうな。
その心地の得もいわれなさで、眠気がさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、(中略)ひたと附ついている婦人の身体で、私は花びらの中へ包まれたような工合。(中略)背中を流すにもはッはッと内証で呼吸がはずむから、もう断ろう断ろうと思いながら、例の恍惚で、気はつきながら洗わした。
その上、山の気か、女の香においか、ほんのりと佳い薫がする、私は背後でつく息じゃろうと思った。
読みながら、僧と同じようにうっとりしてしまう文章です。肩→背中→横腹→お尻と視点に上下の動きを与えた上で、水がそこをなぞるように上から下へさらさら流れる描写に、私は官能的な美しさを感じました。
また、水に「柔か」という形容詞を使うのも面白いです。人間を安心させ、癒してくれる水ということで、私はお風呂の水を連想しました。
水の感触と、女の肉感と、良い香りで心地良さを感じつつまどろむ僧の描写が続き、夢の中のような幻想的な雰囲気が立ち込める場面です。
これは、「お坊さんが、美女に身体を洗ってもらって喜んでいる」場面です。こう言ってしまえば身も蓋もありません。
しかしこの文章では、視覚に動きが与えられることで水の描写が生き生きとしているところや、「柔か」の使い方、女の身体を花びらに例えるところなど、文章の技巧的な部分が目立ちます。
このように、「面白い話を書こう」というよりは、意外と思われる言葉を組み合わせたりして、テクニカルな文章を書くことを目的としたのが純文学なのです。
文章の捉え方という観点からまとめると、大衆文学は内容を伝えるための道具として文章を使い、純文学は文章そのものに価値を見出すという言い方ができます。
③売れるか売れないか
大衆文学と純文学を比較したときに、より売れるのは大衆文学作品です。今まで解説したことをおさらいするとよく分かります。
純文学は、芸術という位置づけでした。つまり「理解するのが難しい」ということです。ピカソの「ゲルニカ」を見て、反射的に「素敵!」と思う人はあまりいません。描かれた対象や背景、技法を理解した上でやっと良さが分かるのではないかと思います。
このような「芸術」という性質に魅力を感じる人は限られます。複雑なものより、簡素なものの方が受け入れられるからです。よって、必然的に純文学の読者は大衆文学の読者よりも少なくなります。
読者が少ないということは、買う人も少ないということです。買う人が少ないということは、利益が出にくいということです。純文学の作家はそれを覚悟した上で、自分が書きたいことを小説で表現する芸術家なのです。
反対に大衆文学は内容重視の娯楽なので、多くの人々に支持されています。同時に、ライバルが多いのも事実です。大衆文学の作家たちは、その競争で勝ち残っていくために「いかに人の心を掴むか」「読者が何を求めているか」などを編集者と話し合って構想練ります。
話の内容で人の心を掴むには、ジェットコースターのようなスリルと興奮、面白さが不可欠です。読者に登場人物へ感情移入させ、一緒に喜んだり悲しませたりするのです。感情が動くと、人は「面白かった」という充足感を覚えるからです。
その感覚が、「またこの作家の作品を読みたい」という思いに変わり、購買に繋がるのです。大衆文学が人々の感情(感動、興奮など)を刺激するのだとすれば、反対に純文学は人々の理性(知的好奇心など)を刺激するものだと言えます。
最後に
今回は、大衆文学と純文学に違いについて解説しました。
大衆文学 | 純文学 | |
性質 | 娯楽 | 芸術 |
文学賞 | 直木賞 | 芥川賞 |
読者の数 | 多い | 少ない |
重要視するところ | 内容(面白さ) | 美しさ(芸術性) |
歴史 | 短い | 長い |
構成 | 起承転結 | 平坦 |
刺激するところ | 感情 | 理性 |
商業性 | あり | なし |
スタンス | より多くの人に楽しんでほしい | 分かる人にだけ分かればいい |
両者の違いに明確な定義はありません。直木賞作家が純文学を書くこともありますし、その逆もあります。起承転結がなく、日常の出来事を淡々とつづる大衆小説もありますし、良く売れる純文学もあります。
今回違いとして挙げたものは、あくまで判断基準です。「絶対」ではなく「こういう傾向がある」くらいに考えて下さい。
また、どちらが優れていてどちらが劣っているということでもありません。大衆文学も純文学も、性質は違えど同じ小説なのでそれぞれに良さがあります。
「電車の中ではぱぱっと読める大衆文学」「静かに物思いに耽る夜は純文学」というように、時と場合によって読み分けるのも良いと思います。
さて、この記事を読み終わった方なら冒頭の疑問に答えられるのではないでしょうか。「純文学はどういう風に難しいのか」→芸術だから、容易に理解できないという点で難しい。
「読みやすさってなんだろう」→すんなり頭に入ってくる文章で書かれてることや、起伏に富んだ展開、感情を直接揺さぶる構成などに影響される。
私は今回「娯楽か芸術か」という切り口で比較しましたが、軸を変えればいくらでも違った定義ができると思います。ぜひ、自分が一番納得できる解釈をしてみてください!